砂漠のナボナ

来る前からここにいて、去った後もここにとどまる

3大欲求のジレンマ(トリレンマ)

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この画像は以下の記事からお借りしました。

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上の画像は甘えびを餌にオオウナギを釣ろうとしていたところ、交尾中のカニが釣れてしまった時の写真。記事中でも触れられているけどこのカニ、交尾しながら食事もしようとしているのだ。すごい。貪欲である。

食欲、性欲、睡眠欲が人間の3大欲求と言われているが、ぼくは昔からこれらを同時に満たせないものかと考え続けてきたのだ(特に性欲で頭がいっぱいだった中学生ぐらいから)。上記の画像のように交尾中に食事ができれば性欲と食欲が同時に満たされるように思える。が、これまた記事中で言及されているように、どちらかに集中しないといけないだろうという気がする。そうしないとなんか、いろいろと怒られる気がするので。

交尾まではいかなくても、例えば美女とふたりで食事をしていれば、これは性欲と食欲を同時に満たしていることになるんじゃないか。これならそこそこ現実的だし、ごく普通の光景だ。

しかし、ここで強欲にも睡眠欲まで満たそうとすると話は一気にややこしくなる。そもそも寝ないと睡眠欲は満たせないからだ。寝ていては食べられないし性欲方面もいろいろ難しいだろう。美女と食事するという夢を見る、というのも思いついたが、これって目覚めたときにすごくがっかりするパターンである(ちょいちょい経験するからよくわかる)。だが、睡眠を体を休める行為だとすれば(記憶の整理云々を除く)、目をつぶって横になっているだけでも効果はあると聞く。ならば目をつぶって横になった状態で、女性に抱きしめられながら食べればいいのではないか。うむ、これが一番理想に近いのかもしれない。

でも食事も魅力的な異性も、視覚によって得られる快楽というのは大きい。だから目をつぶってしまった時点でいろいろと台無しである。やはり3大欲求をそれぞれベストな状況で満たすのは無理なようだ。まあそもそも論を言うと、一度に待たさなくても順番に満たせば全く問題ないのである。中学生のおれよ、いまだにこのことは解決を見ない難問であることよ。

現場からは以上です。

エッセイ2本

先日夜に電車に乗っていると、隣で居眠りをしているサラリーマンがぼくの肩にもたれかかってきた。少しでも動いたら起きてしまわないだろうかと、なんだか妙にどきどきした。電車が終点についてもしばらく動けなかった。日中の仕事で疲れているところ、ぼくなんかに寄り掛かって、綾瀬はるかとか長澤まさみとかじゃなくてすいませんなどと思った。

***

女子高生たちの話が聞こえてきた。曰く、みんなで東京に遊びに行くらしい。「ひとりで1泊する」と話す彼女に他の子らはすごいすごいと驚いていた。ひとりで外泊することが尊敬を集める年代、東京への憧れ、きゃっきゃする女子。なぜだかぼくは帰りがけにコンビニで多めに募金をした。

再結成ソングが好きだ

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ええ、超かっこいいですよねこの曲。KICK THE CAN CREWは元々「トリコ」ぐらいしか知らなくて、KREBAがメンバーだったことすら知らないありさまだったのですが、この曲は聴くなり好きになりました。13年ぶりの新曲ということで、過去を振り返りつつも前に向かっていく強いエネルギーを感じます。

で、いろんなバンドやユニットが解散からの再結成をしておりますが、再結成後1発目の「再結成ソング」が結構好きだなということに気が付きました。上記の通りめちゃめちゃ気合入りまくってるところとか、実績があるグループなのにマニアだけを向いてないところとか、とてもよい。というわけで今日はそんな感じのことを書きます。

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大槻ケンヂのエッセイに筋肉少女帯活動休止→再結成の流れが書いてあって(しかも彼はエッセイのネタをあちこちで使いまわすので)、学生のころにろくに勉強もせずオーケンのエッセイを読みふけっていたボンクラであるところのわたくしは、もちろんそのくだりについても何度も読んでいるわけです。思い付きで始めたバンドの成功、そしてマンネリ、悪化する人間関係、そういうものを時間とともに乗り越えて、大人になったメンバーが再結成をして、新人のような気持ちで新曲を出す(この曲の収録されたアルバムも「新人」だし)。こういう段階を経て再結成した彼らがあるのだ、ということをどんなグループに対しても考えることができるのは、ひとえに筋肉少女帯とこの曲のおかげだと思います。あ、でもちょっとこれ、メンバーが喧嘩別れした経緯があってのこの曲っていう流れを踏まえているのはちょっと内輪受け感がありますね。でも「良かれと思ってしたことが 誤解を招いて そりゃないよ」「遊んでもらおと甘えたら イタズラ扱い あんまりさ」は日本ロック界屈指の名フレーズだと思ってます。

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上の「千%」を聴いたときに思い出したのがこの曲で、同じラップグループというのもあるんですが、なんか似てない?サムネイルのMummy-Dみたいな踊りを李明博がやってたのをテレビで見たことがあったような。ZEEBRAをジブさん、宇多丸をシロウさんって呼ぶとマニアっぽい。閑話休題。この曲もよい。静かに燃えるような、確かなやる気と気力が感じられます。ライムスターは活動休止してた期間も短いのでいかにもな再結成感は無いのですが、それでも再結成ソング感はとても強い。休止期間が再結成ソング感に関係ないのなら、みんなもっと活動休止→再結成を繰り返してほしい。

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またしてもオーケンですが、これは筋肉少女帯じゃなくて特撮の方ですな。5年ぶりの新曲だから「5年後の世界」。元々オーケン筋肉少女帯をやめてから始めて、しかもこっちで筋肉少女帯のカバーとかやってたものだから、なんというか筋少の代わり感が漂っていたので、筋少再結成以降の特撮は役目を終えたと思っていたのが、まさかの活動再開。5年という区切りの良さと、曲そのものの力強さから、自分の将来を考えるときなんかにも頭の中でよく流れている曲です。そういえば過去のブログでも触れたことがありました。

終わりの残像誰かが見せつけたって/はてなブログ5周年ありがとうキャンペーン第2弾 - 砂漠のナボナ

他にも好きな曲があった気がするんだけど、忘れちゃったのでここで終わります。レイジーの「ULTRA HIGH」とかもあるけれど、あれはレイジーっぽくない気がしたので除外。また新たな再結成ソングに出会う日まで。現場からは以上です。

何かを始めるのに遅すぎることはない

読みました。

note.mu

マウンティング(書いた本人に自覚はないかもしれませんが、ブコメ見るとそんな感じなので)にわざわざ言及することはないかもしれませんが、ちょっと思ったことをつらつらと。この記事のタイトルは大好きな映画「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」から取りました。みんな見るべき(ブコメから学ばない姿勢)

 ・仕事の1次ピーク云々

元の記事でも「1次」と言っているように何度かあるピークの1回がそこに重なるだけで、他にもピークはあるんだしいいじゃない。「人生の勝負時」に子供がいない方がいい、と書いているようにも読めてなんだかなーと思う。運動会で走れなくたっていいじゃない。父は僕が小学生の時にはもう40代だったけれど、運動会ではその太った体を活かして綱引きで大活躍したぞ。そして無事、ひどい筋肉痛に苦しんだ。子供からしたら父親の失態(というほどでもないが)だって愉快な思い出になることもある。「運動会で走る(そして勝って子供に喜ばれる?)」なんて本人のプライドの問題でしかない。

・20代の遊び、40代の遊び云々

僕はまだ40代ではないので40代の遊びは何なのか知らんが、元記事の筆者も1987年生まれらしいのでまあいいだろう。それだけになんで自信満々に書けるのかはわからんが、観測範囲が狭いと思う。僕の周りには男女で飲むのが趣味の20代はあまりいないけれど、パチンコが趣味の人、ゲームが趣味の人、アイドルのライブに行くのが趣味の人もいればローカル線に乗って古い街並みを見るのが好きな人、映画を見る人、数学の勉強をする人などなど、いろんな人がいる。40代になってどう感性が変わるかはわからんので何とも言えないけれど、別に年齢に任せなくてもいろんな趣味の人はいる。それにそもそも遊びなんて本人が満足していればいいのだから、そこに「それを削って子育てすべき」なんて価値判断は余計なお世話だと思う。

父親のコミュニティ云々

「若くしてそこに飛び込めば成長が……」って、自分の子供と周りの父親をダシにするのはやめてほしい。それに自分より年上の人が父親コミュニティにいるってことは、自分の言ってる「20代で子育てすべき」っていうのと矛盾するじゃないか。サンプルサイズ小さすぎ。自分だけの体験で言えるのなら、仕事にも利益がどうこうみたいな客観的なふりをした表現を使わずに自分の言葉で語ってほしい。

で、一番アレだと思ったのはこれ。「女性は子どもを持つことに対して当事者性が強く、しっかりとキャリアを考えている」いや、世間の偏見で考えさせられざるを得ないだけですから!早く結婚して子供が欲しいと思っている人もいるけれど、世間になんとなく流布する「何歳までに……」とか「子を持って初めて……」とかフェイスブックの投稿に急かされてなんとなくそう思ってるだけの人も多い。「自分がこんな子供なのに子供を持っていいのか」みたいなことを言う人だっているし、この前40代子持ちでそう言ってる人もいたぞ。実際、話を聞く限りでは子供が欲しいと思ってる割には戦略が甘い人もいる。このご時世に年収1000万云々を言う人は本当にいるんだよ。その点で、もちろん女性が生まなくてはならない現状では当事者性は高くならざるを得ないけど、当人たちの内面的には、それが自ら望んだものではない場合もままあると思うのだ。

ここから男女関係ない話になるけど、「世間」が決めたタイムリミットを前にして何かを諦めてしまう人は多くて、それを見ているのが僕は本当につらいのだ。「大学院出たら結婚も遅くなるから」知的で美しいあなたの価値がパートナーの有無で損なわれることがあるわけないだろ!「この年じゃあ留学なんてできないし」あなたの圧倒的な個性はむしろ海外でこそ輝くはずなのに。「本当は〇〇がやりたかったけど」うるせえじゃあおれが接触一切なしのパトロンになればいいのかおれぐらいのてんさいならそんなことだってたやすくやってみせるがそうすればいいのかちくしょうなんだよかんたんにあきらめてるんじゃねえよおまえはおまえののぞむままにやってるのがさいこうすぎてさいこうにきまってるだろこのやろういいかげんにしろよてめえ

イムリミットがあると思ってしまってる人って、なぜかみんな頑なで、それが揺るぎようのないものだと思ってる。でもそんなことはない、やりようはある。その場その場の不都合をある程度許容して、でも自分のことは曲げない。そしてそこで関わった人には精一杯付き合う、パートナーとか子供とか。そうやって生きててもらえると、ぼくの目からはとても魅力的に映るので、ぜひそうしてもらいたいのだ。それが安易なべき論に左右されることなどないように、自分の意志もしっかり持っていてほしい。わが愛すべき女性たちと、実はより愛すべき男性たちには。

毎度のことながら最後はよくわからなくなってしまうこのブログだけれど、今回は時事ネタに素早く言及できた珍しい回ですな。ところで元記事の筆者、画像検索したけど顔が小林銅蟲に似てますね。はあ彼女ほしい。現場からは以上です。

かわいい・かわいい・かわいい

職場の、とある先輩は娘さんが去年の末に生まれたばかり。育児の中でのちょっとしたことを話してくれるのだが、これがとてもかわいいのだ。

先日は娘が初めて寝返りを打ったと話していた。育児の一大イベントと言えば「立つ」「歩く」「話す」だと思っていたが、なるほど「寝返り」というのもあるのである。ちなみにぼくは幼いころ寝返りが打てなかったばっかりに頭の形が歪んでしまい、母から「お前は頭の形が変だ」と言われ続け、コンプレックスを抱くに至ったほどである。だから他人の子供の話とはいえ、なんだかうれしくてはしゃいでしまった。そんな祝うほどのことじゃないよ、と先輩は言ったが、そもそもそんな話を他人のぼくにしているあたり、よほどうれしかったんじゃないかと思う。そして、当の娘も、寝返りを打つことはできたがひとりで元に戻ることはできないらしい。かわいい。

先輩の奥様が子供と一緒に職場に来たこともあった。とてもかわいい。圧倒的な「許される力」のようなものと、とてつもない「これから生きるぞ!ぶっ生き返す!」みたいなエネルギーが、なにはともあれ見る者に「かわいい」という感情を抱かせる。ぼくはあまりのかわいさに「はわわ」などと言いながら挨拶していたのだが、そしたら娘、口からなんか出た。おい、なんだそれは。父母曰く「よく出てる」らしいので、よだれかさもなくば乳児特有のサムシングだと思うのだが、なぜよりによっておれの前で出す。おのれ、貴様には数年後におれを「おいたん」と呼ばせ数十年後には「おじさま」と呼ばせる刑に処す。かわいい。

他にも普段から「あー」とか「うー」とか言ってるとか、ハローキティの人形を見せるとニヤリと笑うとか、いろいろ話を聞くにつけ、かわいい。ぼくはどちらかといえば、子供だからといって必要以上にかわいいとか言うタイプではなかったのだけれど、なかなかどうして、今回はかわいさが止まらない。かわいいは正義だ。身をもってそれを実感している。

ところで前述のぼくの頭の形の話だが、坊主頭にしたときに他の人に見せると、そんなに形が変なわけでもないらしい。とすると、今思うにぼくの母が気にしすぎだったのかなという気がする。そこで気づくのは、娘が寝返りを打つようになったことを喜ぶ父親も、かたや寝返りを打つ前の息子をよく覚えている母親も、同じように成長するわが子のかわいさとか、育児のつらさとか、将来への期待とか、そういったものを共通して抱えていたのかなあということ。なんだかそう思うと、母に一筆手紙でもしたためねばならんかという気分になりますな。いや、もちろん先日の母の日には花を送りましたことよ。

余談だが、先輩の娘を見た同じ職場のパートさんから「結婚しなくていいから子供だけでもはよ作れ!」と言われた。もちろん冗談ではあるが、これを今髪を切ってもらっている美容師さん(いきものがかり似)に話したところ「いや、先に結婚はすべきなんじゃないですかね」と返された。もちろんそうなんだけど、まじめか。現場からは以上です。

「愛」にもう恥ずかしがらない/書評 松浦『泣きたくなったあなたへ』

例によって酔って書いてはいるんですけれども。

先日、休日に友人に会いに大阪に行きまして。その友人は自分の思い描いたキャリアではないにしろとても充実した日々を送っているようで、でも相応の疲れもたまっているようで、なんと声をかければいいか迷いました。「数キロやせた」という彼女の声を真に受けて「油を飲め」と冗談めかした答えをしつつ本気で心配しながら過ごしておるわけなのですが、その道中で友人(&その同僚の皆さん)へのお土産を新幹線の網棚に置き忘れたのですよ。正直、網棚に乗せる時「あーこれ土産だけ置き忘れるパターンだわーでも現時点でわかってるから結局大丈夫なやつだわ何せおれ4年制大学卒業してるしなー相応の判断力と教養を身に着けたことを国に保証されてるわけだしなー」などと思っていたのですが、結局忘れているあたり現代の高等教育の在り方に疑問を投げかけずにはいられません。しかしながらそんな中でなぜハッピーな気持ちでいられたかと言えばこの本を道中読んでいたからなのです。

泣きたくなったあなたへ

泣きたくなったあなたへ

 

 正直、松浦弥太郎は基本いいこと言ってるけれども当たりはずれの大きい書き手だと思っています。例えば『すてきな素敵論』はぼくにとって安易なビジネス書程度の価値しかありませんでした。それでも、この本はなんだかとってもすてきな1冊に思えたのです。なぜか?

まずは精いっぱい人を思いやる、精いっぱい人を愛する。見返りを求めずに。

そうすると、まれに自分の精いっぱいを超えて、相手が思いやってくれたり、愛してくれたりする時がある。もちろん、無視されたり、してくれない時もある。でもね、そうやって与えた分より、多く返してくれる時ってあるんだ。その時の自分の精いっぱいを超えた部分というのは、自分にとって初めて体験する、思いやりや、愛され方だったりするけど、それが、それからの自分の思いやりと愛し方の、なんというかバリエーション(この言葉変だけど)に増えるというか、学んで身につけるというか、種になって、それまでの自分の精いっぱいに足されて、それまでよりもほんの少し、人を思いやれるようになり 、愛することができるようになるような。

「見返りを求めないことが本物」という主張はあちこちで見られますが、大いに賛同する一方であまりにも自己犠牲が過ぎると思うのです。われわれ日本人は古来よりウルトラマンなど、「なんや知らんけど自分を守ってくれるいいひと」を典型的なヒーロー像ととらえているので、自己犠牲はひたすら良い美徳のような印象があります(実際は月光仮面とか仮面ライダーとかそこそこ自分のエゴで戦う人もいたわけですが、それでも身を削って戦うという意味では自己犠牲的であるといえます)。とはいえわが身を数ってまで何かをしようというのは、われわれ一般ピーポーにはそれはそれは難しく、だからこそ架空のヒーローに理想を投影してきたのだと言えるわけです。

翻って「愛」みたいな話をすると、やはりこれも見返りを求めずにはいられないわけです。愛されるよりも愛したいマジで、しかしながら愛されないとあっさり人は死にます。愛なんて言って、結局人は打算的に生きるんじゃないか、大人は汚いやいという葛藤をしつつも、まあなんとなく生きているわけですよわれわれは。

じゃあそういうものに、松浦弥太郎は何を言っているかというと、「見返りを求めず愛せ」というわけです。おいおいそんなことができるに越したことはねえんだよ、でもできないんじゃねえかそこんとこわかってんのかよ弥太郎さんよう、と言いたくなりますし、安易な自己啓発本にも似たようなことは書いてあるでしょう。でもそこで彼は、「これは何よりもよいものだからなにはともあれそうせよ」というよりはもっと、自分自身でも現在進行形で悩んでいて「うーんとにかくわからないけどきっとこうだから、きっといいことあるから、ぜひともこうしておくと後々後悔しないんじゃないかな」というスタンスで書いているような気がするのです。

ところで「書く」ことって結構不確実なもので、写経みたいに別に書いてある文章をそのまま写すのだったら話は別ですが、書いているうちに最初に主張したかったことと最終的な結論が変わってしまうことが個人的にあります。助詞や前置詞の微妙な使い分けによって文章のニュアンスが変わってきたり、そういう文を集めて眺めた時、あれ、これってAじゃなくてBって言わないと論理的におかしくなってくるな、でもこんなこと書きたかったんだっけ、でもこっちのほうがもっともらしいし書いていて筆ものってくるぞ、みたいなことってよくある。「~であることが疑いようのない事実であることは明白であるといえることであることであろうことのように考えられる」みたいに表現を濁せばあいまいなまま残して置けたものが、「~である」と言い切った時点で違う印象を持つようになる。そういうことに対する戸惑いが書いている最中には頻繁に起こって、なんだかよくわからないがハイになってくる。

そういう戸惑いや迷いを、松浦弥太郎は文章に残している、ような気がします。上記の引用文などは語り口調だし、なんとなくそういう雰囲気があるだけかもしれないんですが、戸惑いを感じながら文章を書くこと、その文章が我々にとって半直感的であっても説得力があること、そしてその半直感的ながら「よい」ものに向かって読者の背中を押してくれること、それらをすべてさらけ出しているところに、ぼくは松浦弥太郎の魅力を感じます。この『泣きたくなったあなたへ』は読者の隣に座って語り掛ける体で書かれているけれども、とにかくそれが、ぼくらがどうすることもできなくて、投げ出してしまいがちなことを取り上げては、本人も真摯に悩んでいて、なんかわからないけど、こうしてみるのがいいんじゃないか、ということを必死に伝えてくれているというか。

ところで愛ですが、個人的には見返りを求めずにやりすぎて、一時期とても疲弊してしまったことがあります。相手のことを考えに考えた結果、自分の時間とお金ばかりを消費することになってしまったり、相手がそれを望んでいないことを明確に表明しているのにそれを受け入れられなかったり。今後やり方は変えていこうとは思っていますが、かつてのしんどさを乗り越えてなお人を愛そうと考えていた折、ちょうどこの『泣きたくなったあなたへ』を読んだわけです。上に書いている通り、それは遠方の友人を土産を持って訪ねる最中でした。なんというか、これでいいんじゃないか、そんな気がしたのです。自分がされたら嬉しくて、相手も喜んでくれそうなことはなんだろう。何気ないことの中に、相手に気を遣わせず素直に喜んでもらえるようなプラスアルファをどうやって仕込んでいこう、そういうのでいいんじゃないか、と。

「憎むな、殺すな、赦しましょう」by川内康範

「どうせ塩を送るなら、米もおかずもドーンと送れ!」by島本和彦

「愛ある限り戦いましょう。命、燃え尽きるまで」by美少女仮面ポワトリン

どれも大好きな愛の言葉です。ほどほどに、死ぬまで愛し続けましょう。現場からは以上です。

好きな映画ベスト20

久しぶりの休日に、でもやることが多くて、先延ばしにしたい気持ちを抑えつつやっていかなくちゃいけなくて、大変に余裕がない。こんなときは好きなことを書こう。アフィリエイトとかやってないのでアマゾンのリンクはないです。

1 ガメラ2 レギオン襲来(1996)

2 ニュー・シネマ・パラダイス(1988)

3 七人の侍(1954)

4 ロッキー・ザ・ファイナル(2006)

5 アバウト・ア・ボーイ(2002)

6 ぼくは明日、昨日のきみとデートする(2016)

7 007 カジノ・ロワイヤル(2006)

8 男として死ぬ(2009)

9 ロッキー(1976)

10 太陽を盗んだ男(1979)

11 ブルーバレンタイン(2010)

12 (500)日のサマー(2009)

13 GODZILLA ゴジラ(2014)

14 007 リビング・デイライツ(1987)

15 オデット(2005)

16 プラダを着た悪魔(2006)

17 ダークナイト(2008)

18 Vフォー・ヴェンデッタ(2005)

19 ボーン・スプレマシー(2004)

20 ヱヴァンゲリオン新劇場版:破(2009)

こういうのにありがち、13ぐらいから順不同です。とりあえずわかるのは、007はハード路線が好き、怪獣映画は怪獣が”地球の味方”なやつが好き、ということでしょうか。あと、シルベスター・スタローンジョアン・ペドロ・ロドリゲスがそれぞれ2本ランクインしており、カタカナ表記で名前が長くなる監督が好きなようです。今後はイエジー・スコリモフスキモフセン・マフマルバフを好きになろうと思います。現場からは以上です。