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砂漠のナボナ

来る前からここにいて、去った後もここにとどまる

「判断」というエンターテイメント 映画評「シン・ゴジラ」

自分で思った通りの行動をとることができることの快感というものがあると思っている。自分の中ではそれが小学校のころの教科書を中学生になってから読み返した時の問題の答えが手に取るようにわかる感覚とか、バイト先の仕事を覚えて自分一人で現場が回せるようになった時のあの感覚とか、貧弱なイメージしかないけれど、素早い判断ができるようになったときのうれしさみたいなものがある。自分がその筋のプロにでもなったような感覚というか。そういう「プロ感覚」を娯楽としてがっつり成立させたのが「ボーン・スプレマシー」で、伊藤計劃が指摘していたように、ボーンも刺客も一瞬で現状を把握して最適な行動をとることができるという圧倒的な能力を持っていることを我々凡人にもわかるように描写しエンタメとして完成させた。状況判断からの行動を最高の編集とともに見せるということは観衆にカタルシスを与えるし、「スクリーンの中で”もの”が動いて(アクションして)おもしろい」というのは映画におけるプリミティブな快感でもあると思う。

その点においてこの「シン・ゴジラ」は非常にもどかしい。いわゆる「会議ばかりして決定が遅い日本人」像がこれでもかと描かれるし、登場人物も全力で愚痴る。特に前半、緊急事態発生からの進まない情報収集、無駄な会議の立ち上げ、トップを張る人物の不必要な逡巡、そこに素早い判断というものは一切ない。それは主人公たちの活躍がメインになる後半であっても変わることはなく、決定的な解決策を発見しても遅々として進まない作戦は見ていて非常に歯がゆい。しかし、それだけに大きく動いた時のあの感動たるや。これが未知の脅威に対する決定打となるかどうかはわからなかったはずで、それでも計画が実行され順調に進行したときのあの感動たるや。暗礁に乗り上げたかと思いきや第2波第3波が用意されている「これでもか」感たるや。素早く判断し実行するというテキパキした快感は無いものの、あの時の判断は正しかったんや!という報われた快感がそこにはある。

政治家たちが集まっている状況に怪獣が出現して、ついでに各国の思惑が交差するという構図から考えるに、怪獣映画というジャンルでこれに最も近いのは「ギララの逆襲」だったりして、それだけにこれは正当なゴジラ映画ではないと思っている。それはぼくがvsシリーズ以降のめんどくさいオタクで、ファンのおそらく7割が「あれは微妙だよねえ。おれは好きだけど」と言うであろうスペースゴジラを正義としているだけで別に悪意はない。もっと言えば一番好きなのはGMKかビオランテで、それらよりもはるかにガメラ2が好きで、ギララの逆襲も大傑作だと思っている。とはいえそもそも本多・円谷からの川北という流れ以外存在しないゴジラ映画に「らしさ」を求める時点で大いに間違っている。クローバーフィールドとかギャレゴジとか本作とか、「ぼくのがんがえたゴジラ」がちょくちょく見られる環境というのが一番の理想である。そしてその中でも本作は、震災という日本人共通のバックボーンを利用したとはいえ(「24の瞳」とかも戦争をそういう効果に使っているのでなんらおかしくはないのだが)、怪獣映画を飛び越えて1本の映画として見せたのは素晴らしいの一言。これに尽きる。語りたい部分としては余貴美子ハマーン様ぶりとかピエール瀧のかっこよさとか最終的に日本を救ったのが平泉成演じるタヌキジジイが白人に最敬礼するという風刺画もかくやという描写とか、それはもう尽きないのだがそれはまた日を改めて。