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砂漠のナボナ

来る前からここにいて、去った後もここにとどまる

夏は終わるもの 映画評「時をかける少女」(2006)

今週のお題「映画の夏」

 

夏は終わる。否応なしに終わる。気温は下がり、夏休みという人生のうちでほんのしばらくしか享受できないモラトリアムが終わり、娯楽施設はテンションを下げる。夏は終わる。絶対に終わる。そもそも始まるのは春しかないのだが、それはともかく夏は終わっていくものなのだ。それを我々は社会に出るまでに知る。あのひとときは何か特別なものだったんじゃないかという期待、あるいは不安を知ることになるのだ。

細田守はその点をものすごく理解していた作家である。「ぼくらのウォーゲーム」、「オマツリ男爵」(夏祭り、という強引な解釈)、「おおかみこども」、そしてこの「時かけ」こそその最たるものである。これらはどれも開幕直後から不穏な空気が漂っている。抜けるように青い空、日差し、雲、これらがいやに鮮明に描かれる。ともすれば美しいその景色も、終わっていくものだと分かるや否や一気に不穏になる。いまこの時間は長続きしない、すぐに終わってしまうものなのではないかと思わされてしまう。そこで描かれるのが高校生、男2人に女1人、何も考えずに仲良く過ごすのが許される最後の世代、これらの要素が見るものにある種の覚悟を強いる。この世界は崩壊するぞ、変わらないと思っていたものが否応なしに変化してしまうぞと脅しをかける。そして実際に、主人公の真琴は終わらせてしまうのだ。千昭との夏を。本当は未来で待ってなどいない。当人たちはもちろん待つand走っていくつもりではある。しかし絶対に2人はかつての2人ではない。現実ならば時間の経過による心情の変化によって新しい関係が築けるかもしれないが、本作は物語だ。この作品が変化することはない。2人はずっとそのまま、ただ信じている。残酷。

あなたと過ごした日々を この胸に焼き付けよう

思い出さなくても 大丈夫なように

いつか他の誰かを 好きになったとしても

あなたはずっと 特別で 大切で

またこの季節が めぐってく

この映画は主題歌のこの歌詞にすべて集約される。きっと2人は出会わない。それでも思い出す。いや、思い出さないんだけど。終わった季節をその後も何度も繰り返しながら生きる。夏は終わるもの。終わったものは終わったのだ。でも次もまた夏は来る。終わるものではあっても、再び夏はやってくるのだ。