砂漠のナボナ

来る前からここにいて、去った後もここにとどまる

「愛」にもう恥ずかしがらない/書評 松浦『泣きたくなったあなたへ』

例によって酔って書いてはいるんですけれども。

先日、休日に友人に会いに大阪に行きまして。その友人は自分の思い描いたキャリアではないにしろとても充実した日々を送っているようで、でも相応の疲れもたまっているようで、なんと声をかければいいか迷いました。「数キロやせた」という彼女の声を真に受けて「油を飲め」と冗談めかした答えをしつつ本気で心配しながら過ごしておるわけなのですが、その道中で友人(&その同僚の皆さん)へのお土産を新幹線の網棚に置き忘れたのですよ。正直、網棚に乗せる時「あーこれ土産だけ置き忘れるパターンだわーでも現時点でわかってるから結局大丈夫なやつだわ何せおれ4年制大学卒業してるしなー相応の判断力と教養を身に着けたことを国に保証されてるわけだしなー」などと思っていたのですが、結局忘れているあたり現代の高等教育の在り方に疑問を投げかけずにはいられません。しかしながらそんな中でなぜハッピーな気持ちでいられたかと言えばこの本を道中読んでいたからなのです。

泣きたくなったあなたへ

泣きたくなったあなたへ

 

 正直、松浦弥太郎は基本いいこと言ってるけれども当たりはずれの大きい書き手だと思っています。例えば『すてきな素敵論』はぼくにとって安易なビジネス書程度の価値しかありませんでした。それでも、この本はなんだかとってもすてきな1冊に思えたのです。なぜか?

まずは精いっぱい人を思いやる、精いっぱい人を愛する。見返りを求めずに。

そうすると、まれに自分の精いっぱいを超えて、相手が思いやってくれたり、愛してくれたりする時がある。もちろん、無視されたり、してくれない時もある。でもね、そうやって与えた分より、多く返してくれる時ってあるんだ。その時の自分の精いっぱいを超えた部分というのは、自分にとって初めて体験する、思いやりや、愛され方だったりするけど、それが、それからの自分の思いやりと愛し方の、なんというかバリエーション(この言葉変だけど)に増えるというか、学んで身につけるというか、種になって、それまでの自分の精いっぱいに足されて、それまでよりもほんの少し、人を思いやれるようになり 、愛することができるようになるような。

「見返りを求めないことが本物」という主張はあちこちで見られますが、大いに賛同する一方であまりにも自己犠牲が過ぎると思うのです。われわれ日本人は古来よりウルトラマンなど、「なんや知らんけど自分を守ってくれるいいひと」を典型的なヒーロー像ととらえているので、自己犠牲はひたすら良い美徳のような印象があります(実際は月光仮面とか仮面ライダーとかそこそこ自分のエゴで戦う人もいたわけですが、それでも身を削って戦うという意味では自己犠牲的であるといえます)。とはいえわが身を数ってまで何かをしようというのは、われわれ一般ピーポーにはそれはそれは難しく、だからこそ架空のヒーローに理想を投影してきたのだと言えるわけです。

翻って「愛」みたいな話をすると、やはりこれも見返りを求めずにはいられないわけです。愛されるよりも愛したいマジで、しかしながら愛されないとあっさり人は死にます。愛なんて言って、結局人は打算的に生きるんじゃないか、大人は汚いやいという葛藤をしつつも、まあなんとなく生きているわけですよわれわれは。

じゃあそういうものに、松浦弥太郎は何を言っているかというと、「見返りを求めず愛せ」というわけです。おいおいそんなことができるに越したことはねえんだよ、でもできないんじゃねえかそこんとこわかってんのかよ弥太郎さんよう、と言いたくなりますし、安易な自己啓発本にも似たようなことは書いてあるでしょう。でもそこで彼は、「これは何よりもよいものだからなにはともあれそうせよ」というよりはもっと、自分自身でも現在進行形で悩んでいて「うーんとにかくわからないけどきっとこうだから、きっといいことあるから、ぜひともこうしておくと後々後悔しないんじゃないかな」というスタンスで書いているような気がするのです。

ところで「書く」ことって結構不確実なもので、写経みたいに別に書いてある文章をそのまま写すのだったら話は別ですが、書いているうちに最初に主張したかったことと最終的な結論が変わってしまうことが個人的にあります。助詞や前置詞の微妙な使い分けによって文章のニュアンスが変わってきたり、そういう文を集めて眺めた時、あれ、これってAじゃなくてBって言わないと論理的におかしくなってくるな、でもこんなこと書きたかったんだっけ、でもこっちのほうがもっともらしいし書いていて筆ものってくるぞ、みたいなことってよくある。「~であることが疑いようのない事実であることは明白であるといえることであることであろうことのように考えられる」みたいに表現を濁せばあいまいなまま残して置けたものが、「~である」と言い切った時点で違う印象を持つようになる。そういうことに対する戸惑いが書いている最中には頻繁に起こって、なんだかよくわからないがハイになってくる。

そういう戸惑いや迷いを、松浦弥太郎は文章に残している、ような気がします。上記の引用文などは語り口調だし、なんとなくそういう雰囲気があるだけかもしれないんですが、戸惑いを感じながら文章を書くこと、その文章が我々にとって半直感的であっても説得力があること、そしてその半直感的ながら「よい」ものに向かって読者の背中を押してくれること、それらをすべてさらけ出しているところに、ぼくは松浦弥太郎の魅力を感じます。この『泣きたくなったあなたへ』は読者の隣に座って語り掛ける体で書かれているけれども、とにかくそれが、ぼくらがどうすることもできなくて、投げ出してしまいがちなことを取り上げては、本人も真摯に悩んでいて、なんかわからないけど、こうしてみるのがいいんじゃないか、ということを必死に伝えてくれているというか。

ところで愛ですが、個人的には見返りを求めずにやりすぎて、一時期とても疲弊してしまったことがあります。相手のことを考えに考えた結果、自分の時間とお金ばかりを消費することになってしまったり、相手がそれを望んでいないことを明確に表明しているのにそれを受け入れられなかったり。今後やり方は変えていこうとは思っていますが、かつてのしんどさを乗り越えてなお人を愛そうと考えていた折、ちょうどこの『泣きたくなったあなたへ』を読んだわけです。上に書いている通り、それは遠方の友人を土産を持って訪ねる最中でした。なんというか、これでいいんじゃないか、そんな気がしたのです。自分がされたら嬉しくて、相手も喜んでくれそうなことはなんだろう。何気ないことの中に、相手に気を遣わせず素直に喜んでもらえるようなプラスアルファをどうやって仕込んでいこう、そういうのでいいんじゃないか、と。

「憎むな、殺すな、赦しましょう」by川内康範

「どうせ塩を送るなら、米もおかずもドーンと送れ!」by島本和彦

「愛ある限り戦いましょう。命、燃え尽きるまで」by美少女仮面ポワトリン

どれも大好きな愛の言葉です。ほどほどに、死ぬまで愛し続けましょう。現場からは以上です。