あの人と結ばれなかった私は今
あなたがわたしに魔法をかけてくれる - インターネットの備忘録
いかにクソみたいな人生であってもなかなか死のうとは思えないのは、遠い昔に結ばれなかった相手が言った「君っておもしろいね」「料理が上手だね」みたいな言葉が支えになっているからだったりする。確かに魔法かも
2016/08/02 19:35
それはもう死ぬほど好きだった人と結ばれない、という経験が私にはある。なにせその人の幸せこそが私の幸せで、なんならもうその人が生きているだけで満たされるような、そんな相手だったから。自分の全てを以ってその人と向き合い、相手を光らせ、自分の思いをぶつけ、それらが止揚するような世界、そんなものがありえるんじゃないかと希望を持っていたころのことだ。「グッド・ウィル・ハンティング」でロビン・ウィリアムズが言っていたような、「目を覚ますと天使が横にいるという喜び」的なものがそこにはあった。彼女との食事、会話、帰り道、俺の6畳の1K、笑顔、髪形、ファッション、共に涙を流した瞬間、同じものを見て笑った瞬間、肌の色、声、俺の声、あのときの領収書、消せなかったメール、とあるwebサービスの終了とともに消えてしまったメッセージ、酒、準備したのに話せなかった話題、「大好き」の言葉、落ちる瞬間、最高の誕生日、視線、俺を見ろ、俺を見ろ俺を見ろ俺を見ろ、神様頼むから彼女にだけはこれから悲しい出来事が起こらないようにしてください、共感、「先生」、名前の響き、彼女の出身地、年齢、最寄り駅、あの夜最高に楽しかったあの夜。思い出すなり眩しさを感じるのは俺が泣いているからか。彼女と別れて以降の現在、自分の人生は余生というか消化試合というか流しというか、肩に力の入らない人生を送っている。もしかしたらこの先彼女よりも魅力的な女性と出会い、親密な関係になるかもしれない。それでも間違いなく欠乏感を感じずにはいられないだろうという予感がある。所詮どこにでもいるような女で、世界を代表するセックスシンボルでもなければ、町一番の美女というわけでもなかったかもしれない。それでも、それでも、好きだったんだ。
なんだかこんなことを書かれてしまっては、エモいこと書かなきゃいけない気がしてきた。だから書いた。きっと自分の人生は物語なんかじゃなくて、宇宙規模で見たらものすごくどうでもいいことはわかっているけれども、それでも書いたっていいじゃないか。「誰かに届くかも」みたいな幻想がどうのこうの、みたいなことを山形浩生は書いていたが、ここは「ポケベルが鳴らなくて」がのちの世で古びてしまったとしてもその時々でそういう歌詞を書くべきなのだと叫んだ秋元康を支持したい。これは私の物語ですらない、なんのカタルシスもない覚書でしかないけれど、それでも書いた。だって夏なんだもん。
「判断」というエンターテイメント 映画評「シン・ゴジラ」
自分で思った通りの行動をとることができることの快感というものがあると思っている。自分の中ではそれが小学校のころの教科書を中学生になってから読み返した時の問題の答えが手に取るようにわかる感覚とか、バイト先の仕事を覚えて自分一人で現場が回せるようになった時のあの感覚とか、貧弱なイメージしかないけれど、素早い判断ができるようになったときのうれしさみたいなものがある。自分がその筋のプロにでもなったような感覚というか。そういう「プロ感覚」を娯楽としてがっつり成立させたのが「ボーン・スプレマシー」で、伊藤計劃が指摘していたように、ボーンも刺客も一瞬で現状を把握して最適な行動をとることができるという圧倒的な能力を持っていることを我々凡人にもわかるように描写しエンタメとして完成させた。状況判断からの行動を最高の編集とともに見せるということは観衆にカタルシスを与えるし、「スクリーンの中で”もの”が動いて(アクションして)おもしろい」というのは映画におけるプリミティブな快感でもあると思う。
その点においてこの「シン・ゴジラ」は非常にもどかしい。いわゆる「会議ばかりして決定が遅い日本人」像がこれでもかと描かれるし、登場人物も全力で愚痴る。特に前半、緊急事態発生からの進まない情報収集、無駄な会議の立ち上げ、トップを張る人物の不必要な逡巡、そこに素早い判断というものは一切ない。それは主人公たちの活躍がメインになる後半であっても変わることはなく、決定的な解決策を発見しても遅々として進まない作戦は見ていて非常に歯がゆい。しかし、それだけに大きく動いた時のあの感動たるや。これが未知の脅威に対する決定打となるかどうかはわからなかったはずで、それでも計画が実行され順調に進行したときのあの感動たるや。暗礁に乗り上げたかと思いきや第2波第3波が用意されている「これでもか」感たるや。素早く判断し実行するというテキパキした快感は無いものの、あの時の判断は正しかったんや!という報われた快感がそこにはある。
政治家たちが集まっている状況に怪獣が出現して、ついでに各国の思惑が交差するという構図から考えるに、怪獣映画というジャンルでこれに最も近いのは「ギララの逆襲」だったりして、それだけにこれは正当なゴジラ映画ではないと思っている。それはぼくがvsシリーズ以降のめんどくさいオタクで、ファンのおそらく7割が「あれは微妙だよねえ。おれは好きだけど」と言うであろうスペースゴジラを正義としているだけで別に悪意はない。もっと言えば一番好きなのはGMKかビオランテで、それらよりもはるかにガメラ2が好きで、ギララの逆襲も大傑作だと思っている。とはいえそもそも本多・円谷からの川北という流れ以外存在しないゴジラ映画に「らしさ」を求める時点で大いに間違っている。クローバーフィールドとかギャレゴジとか本作とか、「ぼくのがんがえたゴジラ」がちょくちょく見られる環境というのが一番の理想である。そしてその中でも本作は、震災という日本人共通のバックボーンを利用したとはいえ(「24の瞳」とかも戦争をそういう効果に使っているのでなんらおかしくはないのだが)、怪獣映画を飛び越えて1本の映画として見せたのは素晴らしいの一言。これに尽きる。語りたい部分としては余貴美子のハマーン様ぶりとかピエール瀧のかっこよさとか最終的に日本を救ったのが平泉成演じるタヌキジジイが白人に最敬礼するという風刺画もかくやという描写とか、それはもう尽きないのだがそれはまた日を改めて。
ただひとつだけ言いたいのは、樋口よ、新幹線大爆破ってそういう意味じゃねえから! #シン・ゴジラ
— MATSUSHIMA Nanigashi (@carbonphilia) 2016年7月29日