砂漠のナボナ

来る前からここにいて、去った後もここにとどまる

パイナップルはほぼ木

少し前に台湾のパイナップルの消費が減って大変だから日本でも食べようみたいなニュースがあったと思う。だからなのか、職場近くのスーパーでも台湾産のパイナップルが売られていた。普通は1個298円とかで売ってる中598円となかなか強気の値段設定だったのだけれど、これが食べてみるとすごくおいしかった。とにかく甘くて、イメージが貧困だが缶詰のパイナップルとか100%ジュースみたいな味がした。普通パイナップルの芯は取るものだけど、これは芯も柔らかくてそのまま食べられるのがすごかった。あと酸味やタンパク質分解酵素で歯がギシギシしがちなのもなくてよかった。

 

ところでパイナップルを切ってて思ったのが、これはかなり木だ。葉というか幹というか緑色のアレ、あれは明らかに木だ。まああそこは実際には食べないからいいんだけど、実もあの葉と連なった同じ構造なのだ。実の部分の皮も結構固くて分厚いのでほぼ木である。よく考えるとあの可食部もすごく筋張ってて他の果物とは一線を画している。あの繊維質って野菜ならまだしも果物としては相当異質じゃないか。葉物野菜の茎か、ごぼうみたいな感じがしてくる。もう木じゃないか。パイナップルの生え方とか生態とか調べずに書いてるけど、あれは食べられる木だ。果物の顔をした木だ。キダ・タローは浪速のモーツァルトだが、パイナップルは木だ。そもそも僕らは果物の可食部を差してその名前で呼んでいるけど、当の果物からしたら可食部以外も自分自身だろう。私以外私じゃないの。「リンゴの木」なんて言ってさ、リンゴからしたらむしろ木が本体であって果実に従属するものじゃあないだろう。可食部の名称をもってその種を呼ぶなんて、これも自らが捕食する側と信じて疑わない霊長類のおごりである。だからパイナップルは木である。人間は大地から離れることができないというレゲエの世界観に従えば、果物にももっと謙虚なスタンスを取るべきである。よってパイナップルは木。

 

ちなみにそれを買ったスーパーでは店内放送で「パイン」って言って売り込んでたんだけど、素人の話し言葉だと「パイナップル」って言わないと聞き取りづらいよ、ともどかしい思いがしました。でもパイナップルはうまい。木とか木じゃないとかはどうでもよくて、やる気が出ないときはとりあえずパイナップルを買って切って冷蔵庫で一晩冷やすだけのやる気は出して(矛盾)、おいしいパイナップルを食べるとやる気は出ないけど楽しいですよ。

 

今週のお題「やる気が出ない」

お前ら付き合って(なかっ)たのか

人一倍恋愛体質の割には恋愛に疎い人生を送ってきた。中学生の頃から、いや、あのころはおれだって人気者だったんだ。高校生ぐらいだろうか、誰と誰が付き合ってる、みたいな話に急についていけなくなった。人並みに興味はあったはずである(今思えばなかったような気もする)。しかし情報が入ってこないのだ。少ないけど友達はいたし、その中のみんなが知っていたカップルのこともおれだけ知らなかったのだ。みんなそんなのどこで聞いたんだよ。あれか、おれが珍しく風邪で休んだときに号外でも出回っていたのか。

 

 

時は流れて社会人である。みんな職場結婚してる割にはカップルがいることは全く気がつかなかったし、仲の良い同期の二人が付き合ってて結婚してたことも全く気づかなかったのだ。ここでおれが単にハブられていた可能性も浮上するのだが触れないでおこう。触れないでおこう!実際にそういうこともあったんだぞ!キエーッ。でもまあ、あからさまに付き合ってるのがわかるような人たちは居て、なぜかそういう人たちはみんないつの間にかいなくなってたりしてた。異動したわけでもなく、さりとて寿退社とかでもなく、あれなんだったんだろう。

 

 

そんな中でおれは発見してしまったのだ!社内カップルを!おれは事務所のとなりの市に住んでいるのだが、その市内で花火大会があったのだ。花火なんかどうでもよかったのでおれは夕食を買いに行ったのだが、コンビニもスーパーも花火客で大混雑(ところで花見客って言うけど花火客って表現は正しいんだろうか)。うんざりしながらスーパーに入ろうとしたところ、浴衣姿の同僚女子がいたのだ。向こうもおれに気づいて「あっ」って言った気がするが、そんなことよりおれは腹が減っていたのである。特に挨拶もせず通り過ぎると、同じく浴衣姿の同僚男子が連れ立っているのを視界の端にとらえた。あっ、えっ?なんだお前ら付き合ってたのか。ふーんとは思ったがそれだけである。やはりおれは他人の恋愛に興味が無いのかもしれない。

 

 

それでも自分の知らなかった恋愛情報を入手したことに若干のうれしさがあった。そうか、高校のときのみんなは花火大会で情報を仕入れていたのかもしれない。その同僚二人とは机のシマが離れていたので、存在を認識しているとはいえ全く絡みが無かったのである。その距離感もいっそうささいな喜びを加速させた。そうか、お前ら付き合ってたのか。そうか、そうなのか。うふふ。いや、そうであることは本当にどうでもいいんだけど、「お前ら付き合ってたのか」このフレーズが頭に浮かんだ喜び、例えるなら「こんなこともあろうかと」「そのまさかだよ」「そういうところだぞ」とか、そういうともすると芝居がかった定型句がちゃんと頭に浮かんだことが自分にとっての実績解除のような気がしていたのだ。お前ら付き合ってたのか。実際その後も二人は職場で非常に仲が良かった。順調なんだなと思っていた。

 

 

ずっとその二人は仲が良かったのだが、2年ぐらいして女性の方がまったく違う男と結婚して退職していった。なんだ、お前ら付き合ってなかったのか。じゃああれはなんだったんだろう。この話の解像度の低さはおれの恋愛事情への疎さからくるのか、それとも本当に興味が無かったのか、現代人は付き合ってようとなかろうと異性とデートするのか。やっぱりどうでもよくはあるのだが、それでもおれの中で釈然としない気持ちだけが残った。お前ら付き合ってなかったのか、って不思議なフレーズですよね。

誰かを納得させるためでないのだから俺もお前も納得するな 「バチェロレッテ」感想

※この記事は「バチェロレッテ・ジャパン シーズン1」の重大なネタバレを含みます。

www.amazon.co.jp

令和の女傑、俗世の女神、しかしそこに宿る圧倒的な愛らしさ。リアリティーショーという他人に作られた箱の中で、それでも自分こそが主人公であると高らかに宣言した福田萌子は、不世出の傑物であることは言うまでもない。しかしてその萌子さんは、17人の男性の中から1人を選ばなければならない環境の中で、誰も選ばずに旅を終えた。理由は自分に嘘をつきたくなかったから、そしてそこで妥協するのは17人の誰に対しても失礼にあたるから。最後まで自分を貫く、ともすれば陳腐なこの表現を、萌子さんはやりぬいた。各種取材で出演した理由について「女性をチアアップするため」と答えているあたり、安易な女性像を提示したくなかった思いはあるだろう。所詮はショー(この表現いやですね)なので、当然演じている部分はあるのだろう。それでも画面を通して見える萌子さんはどこまでも素敵で、僕もたまらず好きになってしまったのである。

 

この「バチェロレッテ」、その結末は賛否の嵐を巻き起こした。本編終了後の座談会では「選ばないのは卑怯だ」との非難が参加男性からあがったし、某ブログ記事では「選ばなかったことを謝らないこと」への非難すらされていた。その一方で、萌子さんの選択を支持する意見も見かけた。逆張りのようで恐縮だが、僕はどの意見も間違っていると思う。

 

非難をうけた萌子さんは「自分は誰かを納得させるために選択をしているわけではない」と答えた。それがすべてなんじゃなかろうか。非難であれ賞賛であれ、僕らが何か解釈する余地は無いのではないか。福田萌子がそう思ったからそうした。これがドラマや劇映画なら好きに感想を言えばいいと思うが、これはショーでありながらリアルなのである。福田萌子はショーとしてもリアルとしてもこの選択をした。たらればやifは存在しないし、我々観客が意見を言うのも野暮だと思うのだ。

 

リアリティショーとしては、プロレスラー木村花選手の話題が記憶に新しい。ここでは多くを語らないが、ひとりのプロレスファンとして、将来の女子プロ業界を確実に担っていたであろう逸材を失ったことを、番組製作側、番組のファン、さらにはプロレス業界とプロレスファンも反省すべきだと思う。それはそうと、あの一件で思ったのは、みんなもっと現実と作り物の区別をつけられるようになれよということだ。いや違う。目の前で起こっていることを、それはそうとして受け止めるべきだと思ったのだ。奇しくもプロレスというのはそういう世界である。あれはショーでも真剣勝負でもなく「プロレスはプロレス」byジャイアント馬場なのだ。現実と作り物、虚と実を明確にわけることなく、ただありのままに起こっていることを見て楽しむ。「バチェロレッテ」においても僕はこのスタンスをとりたい。

 

萌子さんが選ばなかったことは萌子さんの選択である。誰に理解されなくても萌子さんが選択したのである。非難も賞賛も、どこかその事実を置き去りにしている印象がある。非難するということは、他人の意志という変えられないものに言及している。賞賛するということは、一見萌子さんを肯定しているようで、「たらればの無い」「私の選択」に対しては傲慢な態度なのではないか。萌子さんの思いや決意は他の誰のものでもないのである。まして、「誰かを納得させるためでは無い」のである。

 

なにかこう、わからないものに対して「わからない」とも安易に言わず、それをわからないままにしておくことが、いまやとても重要な気がしている。判断が遅いとか優柔不断とかそういうことではない。そのままでしかないことなのだからそのまま受け止めよう。解釈することはどこまでも安直である。わからないものに直面したとき、その曖昧さに耐えるということ。これからの僕らは今までのような出会いや恋愛を楽しむことができない。そんな世界で、言うなれば最後の恋愛をした萌子さんの決断をあるがままに受け止めるのが、変わってしまった世界でも相変わらず出会ったり出会わなかったり恋に落ちたり落ちなかったりしたい僕らがやるべきことなんじゃないだろうか。さっすがボンクラ間の悪い。萌子さんにうっかりチアアップされた僕が言いたいのは以上です。

サブウェイのピザサブに今は亡きファミマのサクッとピザを見た

サブウェイの新商品「ピザ バジルチキン」がとてもおいしかった。

www.subway.co.jp

サブウェイといえば山盛りの野菜だが、これはピーマンとたまねぎが少しだけだ。その代わり、山盛りのチーズが乗っている。本能に訴える乳脂肪の旨みがある。バジルの効いた食べ応えのあるチキンと相まって、立派な食事感が強い。パンは強めに焼かれており、公式に勧められるセサミのパンがさらに香ばしさに拍車をかける。ファストフードの中でも洗練されたイメージのサブウェイにあってなお、かなり完成度の高いメニューだと思う。

 

ところで旧世紀末、ファミリーマートでサクッとピザなる商品が売られていたことをご存じだろうか。

www.family.co.jp

注文されるとレンジで温めて提供される、長方形の形をしたピザだ。立ち位置は今でいうとブリトーが近いと思う。当時は結構プッシュされていて、CMソングを今でも歌えるほどだ。「空腹をやっつけろ サクサク戦士ピザロボ ホットレンジ攻撃だ! サクッと、ピザ~」つい歌ってしまった。キャラクターはデザインがロドニー・グリーンブラッド、20世紀末にPUFFYとかパラッパラッパーブイブイ言わせてたあのロドニーである。今見てもすごくキャッチーですね。

ところで味はと言えば、店で調理される割にはクラスト部分がすごくサクサクで、すごくおいしかったのだ。特に印象的だったのがバジルの方で、今までピザといえばトマトソースだと思っていた僕にとって、謎の緑のソースがなぜこんなにおいしいのか不思議であった。今にして思えばハーブのおいしさを最初に認識した食べ物だったと思う。

どうしてこのサクッとピザを急に思い出したかと言えば、上で触れたピザサブがまさにこの味だったのだ。サクサクした食感、チーズ、バジル。要素が似ていると言えばそれまでだが、手軽に食べられるファストフードやコンビニフードの中に、この味ってあるようで無かった気がするのだ。なつかしのおいしい味に再び出会えてもちろんうれしいのだが、かつて160円で味わえた物が今や450円になってしまったのは(いや全く別物なんだけど)、なんだか時代の流れを感じてしまう。あのときと同じ感動を味わうには3倍近いお金が必要なのかと。あれから僕もお金を稼ぐようになり、そりゃあ450円ぐらいどうということはないさ。でも、あの当時の、後世で失われた10年とか言われてしまうあの時代の中にあって、バブルも崩壊して久しいのにどこか日本景気が見栄を張っていたようなあの雰囲気と共にあったサクっとピザの味が、2020年の今になってサブウェイに味わわされたことは、僕にこの上なく奇妙な感慨をもたらすのである。

映画で見る注射が怖い

アクション映画や犯罪映画で、人に睡眠薬や自白剤をうつために注射を差すだろう。あれが怖い。僕は注射が苦手で、採血も苦手なら献血もやりたくない。安倍総理の辞任で注目された潰瘍性大腸炎を僕も患っているのだが、これまた安倍総理が辞任の前に病院に行った時にやったことで注目されたG-CAPという治療法を僕もうけたのだが、要は透析と同じなので、一度にたくさん血液を抜いたり戻したりできるようぶっとい針を刺さなければならない。これが大変に痛くて泣きそうだったのだ。

www.suiyuukai.or.jp

そんなに注射が嫌いなので、映画でも見ると目をつぶってしまう。シチュエーション的にはみんな脅されたり捕らわれたりしてから注射されるので、むしろ前の段階の方が当人からしたら怖いのだろうが、見てる側から見たらそんなこと関係ないのである。えっ別に君は主人公だからこの後も生きてるんだろうけどさ、首にそんなぶっとい注射されたら痛くない?なんなら痛くて暴れて注射外れるくらいじゃない?俺だったらムリだね、だって注射痛くて怖いもん。

引き算の発想

チキンピカタが好きである。そぎ切りにした鶏胸肉に塩胡椒してから片栗粉をまぶし、粉チーズをまぜた溶き卵にくぐらせてオリーブオイルで焼くのだ。多めにケチャップをかけると大変に滋味深い。さらに冷めてもうまい。いっぱい作って夕食と次の朝食と昼の弁当にすると大変にはかどる。

 

ところがこれ、最近なんだかおいしく作れなかったのだ。久々に作ったらおいしかったのでどうしてだろうと思ったら、使う材料を少なくしたのであった。肉が軟らかくなると思って砂糖だの酒だの色々と足していたのだが、これが手間の割に効果が薄く、それどころか味のコントロールができなくなっていたようである。

 

そうしてタイトルの引き算の発想という言葉に至ったのだが、これってなんだか感じ悪い言葉ですよね。ファッションにおける”外し”的な、一方的におれは悟りを開いたぞってアピるしているような気がして。

 

女子プロレス団体・スターダム所属の木村花選手が亡くなられた。今年1月の新日本プロレス東京ドーム大会でスターダム提供試合が組まれ、生で観戦していたのだが、彼女は当時からテラスハウス出演で知名度が高く、スターダムになじみの無かったファンからも歓声が大きかった。最後は岩谷麻優選手に敗れたが、その堂々たる試合っぷりは印象に残っている。東京ドームは会場の大きさゆえ歓声が選手に届くのが他の会場に比べて遅くなる。そのうえ観客は自分たちのことを知らないのである。門外漢にもスターになる大いなる可能性を感じさせるすばらしいレスラーだった。様々な憶測を呼んでおりすでに大きな話題になっているが、いちプロレスファンとしてはなによりも、未来のスター候補が22歳の若さでこの世を去ったことが残念でならない。

おれのセックスアピールを奪うな

何年か前、「片手でジュースとかビールの缶を開けるの、あれは実は女性にはできないから男性がやってるのを見るとかっこいい」というつぶやきがTwitterに流れてきた。Togetterにまとめられてたと思う。そんなもんかね、と思いながら知人女性に聞いてみたらそうなのだという。その女性がかっこいいかっこいいとはやし立てるので(多分話を合わせてくれるいい人だったんだと思う)目の前で何度か披露したものである。

 

ところで最近Twitterで料理動画をあげるのが流行ってるだろう。あれで最後に酒と一緒に食べるところまでやるやつ(ホットサンドメーカーのリロ氏とか)をみてると、男性の投稿者が多いのか、みんなやたらと片手で缶を開けてるのだ。カメラで撮りながらだし片手で開けるしかないんだろう。それはわかるのだが、ただでさえおいしそうな料理の動画をあげておいて、なぜそこにセックスアピールを盛り込んでくるのか。

 

おれが先に使ってたのに、とよくわからない悔しさが滲んだ。