砂漠のナボナ

来る前からここにいて、去った後もここにとどまる

誰かを納得させるためでないのだから俺もお前も納得するな 「バチェロレッテ」感想

※この記事は「バチェロレッテ・ジャパン シーズン1」の重大なネタバレを含みます。

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令和の女傑、俗世の女神、しかしそこに宿る圧倒的な愛らしさ。リアリティーショーという他人に作られた箱の中で、それでも自分こそが主人公であると高らかに宣言した福田萌子は、不世出の傑物であることは言うまでもない。しかしてその萌子さんは、17人の男性の中から1人を選ばなければならない環境の中で、誰も選ばずに旅を終えた。理由は自分に嘘をつきたくなかったから、そしてそこで妥協するのは17人の誰に対しても失礼にあたるから。最後まで自分を貫く、ともすれば陳腐なこの表現を、萌子さんはやりぬいた。各種取材で出演した理由について「女性をチアアップするため」と答えているあたり、安易な女性像を提示したくなかった思いはあるだろう。所詮はショー(この表現いやですね)なので、当然演じている部分はあるのだろう。それでも画面を通して見える萌子さんはどこまでも素敵で、僕もたまらず好きになってしまったのである。

 

この「バチェロレッテ」、その結末は賛否の嵐を巻き起こした。本編終了後の座談会では「選ばないのは卑怯だ」との非難が参加男性からあがったし、某ブログ記事では「選ばなかったことを謝らないこと」への非難すらされていた。その一方で、萌子さんの選択を支持する意見も見かけた。逆張りのようで恐縮だが、僕はどの意見も間違っていると思う。

 

非難をうけた萌子さんは「自分は誰かを納得させるために選択をしているわけではない」と答えた。それがすべてなんじゃなかろうか。非難であれ賞賛であれ、僕らが何か解釈する余地は無いのではないか。福田萌子がそう思ったからそうした。これがドラマや劇映画なら好きに感想を言えばいいと思うが、これはショーでありながらリアルなのである。福田萌子はショーとしてもリアルとしてもこの選択をした。たらればやifは存在しないし、我々観客が意見を言うのも野暮だと思うのだ。

 

リアリティショーとしては、プロレスラー木村花選手の話題が記憶に新しい。ここでは多くを語らないが、ひとりのプロレスファンとして、将来の女子プロ業界を確実に担っていたであろう逸材を失ったことを、番組製作側、番組のファン、さらにはプロレス業界とプロレスファンも反省すべきだと思う。それはそうと、あの一件で思ったのは、みんなもっと現実と作り物の区別をつけられるようになれよということだ。いや違う。目の前で起こっていることを、それはそうとして受け止めるべきだと思ったのだ。奇しくもプロレスというのはそういう世界である。あれはショーでも真剣勝負でもなく「プロレスはプロレス」byジャイアント馬場なのだ。現実と作り物、虚と実を明確にわけることなく、ただありのままに起こっていることを見て楽しむ。「バチェロレッテ」においても僕はこのスタンスをとりたい。

 

萌子さんが選ばなかったことは萌子さんの選択である。誰に理解されなくても萌子さんが選択したのである。非難も賞賛も、どこかその事実を置き去りにしている印象がある。非難するということは、他人の意志という変えられないものに言及している。賞賛するということは、一見萌子さんを肯定しているようで、「たらればの無い」「私の選択」に対しては傲慢な態度なのではないか。萌子さんの思いや決意は他の誰のものでもないのである。まして、「誰かを納得させるためでは無い」のである。

 

なにかこう、わからないものに対して「わからない」とも安易に言わず、それをわからないままにしておくことが、いまやとても重要な気がしている。判断が遅いとか優柔不断とかそういうことではない。そのままでしかないことなのだからそのまま受け止めよう。解釈することはどこまでも安直である。わからないものに直面したとき、その曖昧さに耐えるということ。これからの僕らは今までのような出会いや恋愛を楽しむことができない。そんな世界で、言うなれば最後の恋愛をした萌子さんの決断をあるがままに受け止めるのが、変わってしまった世界でも相変わらず出会ったり出会わなかったり恋に落ちたり落ちなかったりしたい僕らがやるべきことなんじゃないだろうか。さっすがボンクラ間の悪い。萌子さんにうっかりチアアップされた僕が言いたいのは以上です。