砂漠のナボナ

来る前からここにいて、去った後もここにとどまる

男好きのする映画

タイトルの通り、男好きのする映画ってあると思うのだ。前に「グッド・ウィル・ハンティング」の映画評を書いたが、あれをかいたきっかけはそもそも福山雅治が「『グッド・ウィル・ハンティング』と『ショーシャンクの空に』でいつも泣く」みたいな話をラジオでしているのを聞いたからだ。男子大学生がフェイスブックのプロフィールで挙げがちな映画と言い換えてもいい。その点でいくと『ソーシャル・ネットワーク』とか『インセプション』も当てはまるかな。これらに共通するのは

・主人公は頭がいい

・男の子同士で楽しくやってる

・ちょっと小難しいこと、あるいは頓智の利いたことが出てくる

あたりだろうか。こうしてみると、男の人ってなんやかんやで賢くなりたい(あるいは自分は賢いと思いたい)ところがあって、女が好きでもやっぱり男同士でイチャイチャしてるのが好きなのかなあなんて思ったりする。かくいう自分も男なのでそういう感覚はわからないでもないのだが、こうして並べたときの「フムン」感たるや。

僕には扱えない

最近車の免許を持っていないと言うと驚かれることが多い。今の職場は地方都市にあって、同僚の多くが近隣の市町村出身&在住。当然みんな車通勤で、車を持っていないのは地元民ではないからと近くに社宅を借りている僕ぐらいだ。とはいえ、僕だってそれなりの田舎の出身だ。大学進学とともに上京したとはいえ、10代のころまでは自分も高校を出たあたりですぐに免許を取るんだろうと漠然と思っていた。

それなのに免許を持っていないのは、ぶっちゃけ取りに行くのが面倒だからだ。次に金がかかるから。でもそれだけでもなくて、他にも理由がある。僕は中学生の時に一度、車にはねられたことがあるのだ。

はねられたとはいえ大きな事故だったわけではない。一応病院に行って検査はしたけれど、軽い打撲すらしたかどうか今では曖昧なぐらいのものだった。でも、それは結果でしかない。車とぶつかる直前のことはよく覚えている。その日は朝から雪が降っていたけれど、家を出るのが遅くなって電車を逃した僕は自転車で学校に急いでいた。毎朝生徒指導の先生が入り口に立っていて、遅刻した生徒に小言を浴びせるのだ。それが嫌で、細かいことまで注意していなかったのは確かだ。学校まであと10分の地点にある交差点に差し掛かったとき、事は起きた。交差点に妙にゆっくり接近してきたその車は、青信号を横断中の僕を見て当然止まるものだと思っていた。次の瞬間、僕は自転車から投げ出されて地面に転がっていた。後から聞いた話では僕はその車のボンネットに乗り上げたらしいのだが、全く覚えていない。そのときはとにかく学校に行かなきゃ先生に怒られるという不安と、朝の人通りの多い道路の真ん中で倒れていることへの恥ずかしさですぐに立ち上がって歩道に戻った。「ああでもこうやって事故ったときには相手と連絡先を交換して……という手続きがあるから待ってなきゃいけないんだろうなあ」と思ってすぐに走り出したりしなかったのは、今思うとなんだか可笑しい(でもその場で色々やっておかないと後からでは警察が対応してくれなかったりするから僕の対応は間違ってないんだけど)。

その一件以来、今に至るまでなんとなく免許が取れないままでいる。あの日に僕は死んでいてもおかしくなかった。今偶然に生きているけれども、あの日の時点で何らかの運命が決していてもおかしくなかった。そう思えるぐらい、あの出来事は一瞬だった。自動車って大勢が免許をもって運転しているけれど、人の人生を左右しかねない、少なくとも僕には過ぎた道具だと思うようになった。

事故相手のドライバーがこれまた免許取りたての女子大生で、帰省ついでに地元で車をのりまわしているさなかの出来事だったようで。さすがに中学生をはねておいて警察と話している最中に泣くなよと思った。大学入る前に免許を取ろうかとも思ったけれど、僕も調子に乗って同じことをしでかすんじゃないかと不安になった。そんなこんなで今に至るまで免許は取っていないのだが、「今はいいけどさ、今後の配属先のことを考えると免許無いと出世に響くかもよ」という同期の言葉を聞いて自動車学校の資料を請求したこのタイミングで、このことについて書いておきたくなったのだ。

 

大学の英名が変だ

上智大学の英名はSophia Universityだ。初めて見たときはなんやねんこれとか、松岡充のバンドかとか、お高くとまってんじゃねえよとか思ったものである。sophiaといえばギリシャ語由来で知恵、知識を指す言葉であるが、上智大学曰く「人を望ましい人間へと高める最上の叡智」という意味が込められているらしい。なんだかおおげさな話である。しかし上智大学はそのブランドイメージとは裏腹にキャンパスは立地こそいいものの意外と地味で、教室や食堂が地下にあったりもして全体的に薄暗いのである。イケメンで頭も良いけど、家ではつげ義春とか読んでるクラスメイトみたいな感じだ。いけすかないやつかと思いきや結構話が合いそう、みたいな。

 

次は日本女子大学、これの英名はJapan Women's Universityである。欧米のフェミニストが見たら激怒しそうな名前だ。でも女性が大学に入れなかった頃に女性でも大学に入れるようにした、という意味では高評価かもしれない。しかしWomen's Universityってそのまんますぎだろう。身も蓋もなさではかなりのものである。

 

女子大について言及したので他にも挙げておくと、東京女学館大学はTokyo Jogakkan Collge、椙山女学園大学はSugiyama Jogakuen University、神戸女学院大学はKobe Collegeである。JogakkanだのJogakuenだのと、お前それ外国人の前でも堂々と名乗れんの?と思わざるを得ない無理やりな英名と、神戸女学院の潔さが光る。しょせん内田樹なんぞを雇う大学とか言ってすいませんでした。あと、universityとcollegeの使い分けも重要なポイントである。総合大学がuniversity、単科大学がcollegeという使い分けがされているというのが定説だが、神戸女学院なんて一橋大学とか東京学芸大学よりは学部の数からしてuniversityな気がするのだが、そこも潔さを感じる。さすがは名門校である。余談だが、椙山女学園大学の「人間になろう」ってコピー、妖怪人間かよ。

 

そのまますぎる英名でいくと、東京経済大学がTokyo Keizai Universityなのもすごい。この大学において経済はeconomy(economics)ではなくKeizaiである。経済という語に経世済民の意を託した荻生徂徠の心中はいかなるものであろうか。そこはTokyo School of Economicsでいいんじゃないのと思うが、xxxx School of Economicsという名称はロンドンやパリなどで社会科学の総合大学の名門校によく使われている名前である。さすがに近くに一橋大学がある以上、自粛したのかもしれない。謙虚な事である。というか一橋大学はとっととTokyo School of Economicsを名乗るべき。

 

最後に、個人的に一番たまげたやつを。聖心女子大学の英名がUniversity of the Sacred Heart, Tokyoなのである。sacred heart!! まあそのまんまなのだが、神聖なる心の大学ってお前、都心のお嬢様学校に通う連中が遊んでないわけないだろ!!もちろんこれは偏見である。元々はSociety of Sacred Heartというイエズス会由来の女性による修道会が母体となった由緒正しき大学らしいが、東京の広尾なんて超高級住宅街にあるあたりが僕の嫉妬心を刺激しまくりである。ちなみに名前がそっくりなノートルダム清心女子大学はNotre Dame Seishin Universityである。そりゃあ字は微妙に違うけども、そこはもうpure heartにでもしとけやと言いたくなる。

 

なんだか女子大とキリスト教系に偏ってしまったが、大学の英名って変だよねというお話である。ただこれは僕がおもしろがって言っているだけではなくて、大学の名前ってグローバルな競争では結構重要なことだと思うのだ。だって外国の人って東京以外日本の地名なんてほとんど知らないんだもの。その点ではとりあえずTokyoってついてる大学名なら、そこに所属する研究者が英語で論文を発表しても「ああ、東京ね」って思ってもらえるだろうけど、それ以外の大学はよっぽど過去の実績がないとそういうわけにもいかないんじゃないか。もちろん、国内での教育が重要であって研究者は海外に向かって発信してればいいというわけじゃない、という考え方もあるだろう。ただ、昨今の猫も杓子もグローバルという時代にはあんまりそぐわないような気がするのだ。

国立と国立がまぎらわしい

タイトルだけだと何が何だかわからないが、要するに「国立機関」の「こくりつ」と「東京都国立市」の「くにたち」が紛らわしいという話である。初めて「国立(くにたち)」を見たとき、うっかり「こくりつ」と呼んでしまった人は多いのではないか。僕はそうだ。ここ数年この町で暮らしているのだが、今でも「国立」とみると二度見してしまうほどだ。今回この問題に真剣に取り組みたくなったので長々と書いてみようと思う。以下では特別な場合を除いて、固有名詞も含め「こくりつ」「くにたち」のようにすべてひらがなで表記している。

 

国立市について

くにたち市は東京都の西部、東京駅からJR中央線で1時間弱ぐらいのところに位置する。元々JR南武線谷保駅周辺に集落があったのが、関東大震災に伴い千代田区神田一橋から移転してきた一橋大学を中心に学園都市としての開発が始まり、東に位置する「国」分寺と西に位置する「立」川から名前をとった「国立」駅が完成。そうして生まれたのがくにたち市である。一般的には三浦友和山口百恵夫妻が暮らす高級住宅街として有名だろう。暮らしていて思うのは、遊ぶ場所こそないものの静かで安全だし、大学生が多いため一人暮らし向けの賃貸なら(都内の高級住宅街にしては)割と安く住めるいいところである。

 

紛らわしいくにたち

さて、そうしてくにたちで暮らしていると、否が応にも地名を目にするのだが、これがひどく紛らわしいのだ。以下の写真を見ていただこう。

 

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僕がくにたち市で暮らしてから初めて紛らわしかったのがこのバス停である。「えっ!こくりつ高校?」となってしまったことをよく覚えている。実際には「東京都立くにたち高校」のことを指しているのだが、うっかり「こくりつ」と呼んでしまうのだ。

次はこれ

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くにたち駅のホームから降りる階段で見える広告なのだが、ふと目にした瞬間「あれ?」となる。さくら病院なんて名前のものを国が運営しているはずはないのだが、無意識の領域が一瞬だけ「これってこくりつじゃね?」と語りかけてくるのだ。

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これもなかなか。くにたち市内にある教会の看板なのだが、こういう風に書かれるとまるでロシア正教会のような、その国独自の宗派を想像してしまう。だが実態はどこにでもある教会のひとつだ。単純に地名を付けたはずがうっかり大きな組織に見えてしまう例である。

ちなみに今回探し回って一番ひどかったのが次のこれ

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これ、くにたちだかこくりつ大学だかものすごい混乱しないか。一応補足しておくと「ヴェレーナ(というマンション)くにたち(地名)大学通り(一橋大学に面した通りの俗称)」である。「くにたち」とも読めるし、後ろの単語とつなげて「こくりつ大学」とも読めてしまうのがものすごく紛らわしい。くにたちは暮らしやすい町だが、暮らしていると”こくりつ/くにたち”判定に強制的に頭を使わされるのだ。恐ろしい町である。

 

「こくりつ」と「くにたち」をみわける5つのポイント

このようなストレスをなんとか解消すべく、僕は「こくりつ」と「くにたち」の違いを探すための旅に出た。結果なんとなく見分けるポイントがわかったのでここでシェアさせていただきます。

 

1.こくりつはでかい

「こくりつ」とは何かを知るためにいろいろとこくりつ機関を見て回ったのだが、こくりつって建物がでかい。例えばこれ

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言わずと知れたこくりつ劇場だ。皇居に面していて、主に日本の伝統芸能が上演されている。上の写真を見ると分かるが、横にものすごくでかい。東京に来る前も名前こそ知っていたものの、歌舞伎とか文楽の上演にこんな広いスペースを用意しているとは知らなかった。

 

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こくりつ劇場は横にでかかったが、次は縦にでかいこくりつである。築地市場の程近くにある、こくりつがん研究センターだ。でかさのあまり写真も縦長になってしまったが、手前のトラックとの比較で大きさがなんとなく伝わるだろうか。実物は周りに同じくらいの建物がないことも相まってとても大きく見える。さすがはこくりつ機関、金のかかったでかい建物を作れるのは「くにたち」ではなく「こくりつ」なのだ。同様のことは最近物議をかもしているこくりつ競技場に関しても言えるだろう。

 

2.ほかの言葉がついていればこくりつ

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上の2枚は乃木坂駅に直結している、こくりつ”新”美術館、下の2枚は上野の”東京”こくりつ博物館である。いずれも「国立」と機関名のほかに”新”とか”東京”とか、他の言葉がついているのだ。例えばこれが「国立美術館」「国立博物館」だったら紛らわしくでどっちかわからないだろう。そこに言葉を補うことで「こくりつ」アピールをしているのだ。くにたちなんて東京のはずれの住宅地にこくりつ機関なんてそうそうないだろうという意識を感じるが、まあその通りだから仕方がない。他にはこくりつ”国会”図書館なんてのもある。

 

3.くにたちはひらがな

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僕のような人の存在を見越してのことか、くにたち市にあるものは結構みんなひらがなで「くにたち」と書いてしまっている。なんだいなんだい、こくりつの方にひらがなにさせろやいとひいき目には思ってしまうが、こくりつ機関は全国にあると考えるとこっちの方が合理的である。そもそもくにたち市の市立図書館は「くにたち図書館」なので、公が積極的にひらがな化を推奨していると言っても過言ではない。ただ、ひらがな表記はくにたち市の穏やかな雰囲気が伝わるようで嫌いじゃないぜ。

 

4.講堂がかっこいい大学はくにたちにある

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 くにたち音楽大学の講堂である。写真で伝わりづらいのが大変悔しいのだが、違う大きさの直方体を組み合わせたようなデザインで非常にかっこいいのだ。左に見える三角錐っぽい形のオブジェもかっこよかった。この大学は「国立」と冠していながら私立で、そこが非常にめんどくさいポイントでもある。ちなみにくにたち音楽大学は「くにたち」と言いつつ実際の所在地は立川で、微妙に離れている。東京ディズニーランドが千葉県にあるみたいな話だ。

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この講堂は一橋大学の兼松講堂。総合商社の兼松から寄贈され、伊東忠太(伊藤忠商事とは関係ない)が設計したもので、登録有形文化財にも指定されている。西洋の大学を思わせる荘厳な感じが非常にかっこよく、ドラマの撮影などでも使われている。くにたち周辺の大学にはかっこいい講堂があると言って間違いないだろう。ちなみに一橋大学も元は神田の一橋というところにあったので、くにたち市にあって一橋を名乗るとは東京ディズニーランドみたいな話である。

 

5.ルビを見る

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これは別にくにたち駅に限ったことではないが、駅名などにはルビがふってあるし、市内の店の名前なんかでも結構アルファベット表記のものが多いので間違えなくて済む。しかしJRは元々国営企業なので、民営化する前の「国立駅」は「こくりつのくにたち駅」だったのだ。そう考えると民営化ありがとうという思いがする。間違えないから。

 

こくりつとくにたちの交差点

基本的には上記の4つのポイントをおさえておけば「くにたち」と「こくりつ」の区別はつくのだが、もうこれはどうしようもないなというレベルで両者が共存している場合もある。

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まずはこれ、一橋大学の正式名称は「こくりつ大学法人 一橋大学」なのだ。くにたち市にありながらこくりつ大学。そして前述の通り一橋大学の存在があってくにたち市が作られたので、こくりつ大学ではあるがくにたち(を代表する)大学でもあるのだ。書いている自分でもややこしくなってきたが、どっちの意味でも通じてしまうというのは敵ながらあっぱれである。敵対してないけど。

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次のこれ、「これぞ逆光!」という写真で恐縮だが、神田にある学術総合センターという建物で、所在地は元々の一橋大学があったところである。ここの中には一橋大学のキャンパスの一部と、ついでに「国立情報学研究所」という研究機関があるのだ。これ、すごくややこしいのだが、「くにたち市にあるこくりつ大学のキャンパスとこくりつ機関が共存している」という3重の「国立」が存在することになる。もう参りましたというほかないぐらいの「国立」っぷり。いやはや、もうどうにでもしてください。

 

まとめ

「国立(こくりつ)」と「国立(くにたち)」は非常にややこしいが、

1.こくりつはでかい

2.ほかの言葉がついていればこくりつ

3.くにたちはひらがな

4.講堂がかっこいい大学はくにたちにある

5.ルビを見る

以上の5点を守ることでちゃんと見分けられるようになることがわかった。この記事で使った写真の撮影で、もう一生分の「国立」を見た気がする。もうこれで見間違えることはあるまいと思っていたが、写真を眺めているとどうしても一瞬脳が戸惑っているようだ。これはもう、そういう体質と割り切るしかないのかもしれない。最後に個人的な事ではあるが、ここ数年暮らしたくにたち市から引っ越すことになった。自分の中にあったくにたち市への思いをこうして形にすることができて大変満足である。ありがとうくにたち、愛してるよ!(この記事に登場した「国立」の9割は「くにたち」と書いてから変換しました)

 

下ネタの使い方

下ネタは元々嫌いだった。人の脳の不快感の中枢をさらっとなでるようで、人の感情に土足で忍び込む感じがして嫌だったのだ。でも林雄司が「下ネタは人を傷つけない笑い」と書いてるのを見て、まあそうかなという気はしたし、実際にみんな下ネタで笑っているのを見て使うことを決心した。

 

でも私は下ネタに向いてなかったのか、下ネタというかセクハラっぽくなってしまうのだ。「俺のトロンボーン」とか「義兄弟」とか、『官能小説用語表現辞典』っぽいというべきか、なんだかねっとりした表現になってしまうのだ。私の中ではむしろかわいげのある下ネタのつもりだったのだが、遠回しな分聞き手の理解も遅れるらしく、いまいちな反応しか得られなかった。やっぱり下ネタは良くないかなと思い直した。

 

しかし他人の、しかもリア充と呼ばれるタイプの人の使う下ネタってえげつなくてかなり笑えないのだ。なんか脱ぐし。私のように遠回しなものではなく、なんかもう明らかなセクハラなのだ。無断でLINEのやりとりのスクショをアップしてまで下ネタで盛り上がり、その盛り上がりが他人と共有されていること前提で話を進めていく。えっ、それってなんかおもしろいの?と思うのだが、なぜだかそれで話が続いてしまうのだ。やっぱりああいう人たちと私の住む世界は違うのかなあという気になる。

 

下ネタっていったいなんなんだろう。単純に下半身の話すればいいってもんじゃないけど、うんこの話をしてももうみんな喜ぶような年齢ではないし(でもみんな「う」じゃない方の話は大好きなのだ。それも意味が分からない)。結局話す人間の問題で、リア充っぽい人が話すのならそれがイケてる話で、私が話すとどうでもいい話なんだろうか。非常にどうでもいいことではあるのだが、結局下ネタをどういう風に考え、使えばいいのだろうかと日々悩んでしまうのだ。

男好きのする映画「グッド・ウィル・ハンティング」

福山雅治が泣く映画である。

 

お前は宝くじの1等を持っている。俺たちとは違う。いつものようにお前を迎えに行って、でもお前はいない。それが俺たちの夢なんだ。そう語った後、本当にウィルがいなくなったのを見届けて肩をすくめて笑うチャッキー。それが泣けるのだと。

 

今回見るのは2回目になるが、どの人物の気持ちもよくわかるようになった。印象的だったのはスカイラーに声をかけるチャッキーを論破しようとした学生だ。私も一応高学歴なので、彼のように知識をひけらかしたい気持ちはよくわかる。彼はチャッキーを助けに来たウィルにあっさり丸め込まれてしまうわけだが、実際の高学歴なんて所詮あんなものだ。他者からの引用をあたかも自分の意見として語ることしかできない、ウィルのような天才にはどうやっても追いつけないみじめな存在なのだ。しかしそれでも世間では通用してしまう。彼は言う、「でも学位はもらえる」と。それは明らかに強がりなのだが、でもそう思わないとやっていけないことくらい彼もなんとなくわかっているのだ。

 

結局その彼にしてもウィルにしてもチャッキーにしても、数学者のジェリーもセラピストのショーンもみな何かをあきらめているのだ。その中で劇中ではウィルとショーンのみが新しい一歩を踏み出す。残りの彼らは自分の限界を知りつつも日常に戻る。そんな諦念と哀愁の漂う映画が「グッド・ウィル・ハンティング」である。男だとか女だとか言ってしまうのは好きではないが、それでもやはりこれは男が泣き、男が好む映画である。

自分含めこれから政治を語りたい人へのブックガイド

はてな界隈でも青木大和の話が盛り上がっておりますな。ここからは当事者周辺の細かい話が出てくるぐらいで、一般ピーポーにはろくな分析ができないだろうと思われるので、私も何も言うまい。

 

ところで、彼は身を削ってまで政治に対する国民の意識向上を図ろうとしたわけだが、当のわれわれは政治について何が語れるだろうか。青木氏はなんとなくみんな政治に関心を持つべきだと思ったまま熱くなってしまったんだろうけど、曖昧な感情論を排して冷静に政治について語ることができるだろうか。

 

それに関して何らかの示唆を与えてくれそうなのが久米『原因を推論する』だ。



この本は政治学の本だ。でも世間一般の政治のイメージと違うのは、統計学を用いて政治を数量的に分析してしまうところにある。政治の話をしてしまうとすぐに保守だリベラルだとレッテル貼りが始まってしまうが、本書ではその前に政治の因果関係について冷静に分析し、適切な分析手法を選んでいく。その手法に統計学のような量的分析がたびたび登場する。だが質的分析にも目配せを忘れておらず、統計一辺倒ではないところがうまくバランスが取れている。

 

政治学の本とはいえメインテーマは題名の通り原因の推論であって、真面目な教科書ではない読み物ゆえにすべての政治上の問題に対して答えを出しているわけじゃない。はやりの統計学本でも見るようなネタがあったり、経済学のネタがそのまま出てきたり(大竹「競争と公平感」文雄の文献が複数引用されていた)する。それでもやっぱりこの本がえらいのは、一般人向けに政治学の分析手法をわかりやすく説明しているところだ。小学4年生が疑問に思うよりも早く、大人たちに政治に対してバイアスを極力排したアプローチを可能にする、そんな第一歩を示してくれる。青木氏も、せっかく大学にいるのだから真面目に勉強して、手段が目的化して熱くなってしまう前に落ち着いて考えられるようになってほしかった。擁護はしないけれど、やる気がある時点で可能性はあったんだから。

 

我々が小学4年生の子供を持つとき、彼/彼女は政治について知りたがるかもしれない。自分を顧みると聞きはしなかったもののやはりよくわからないものだと感じていたっけ。実際にどんなことを語るにせよ、そのときまでに判断材料はそろえておきたいな。

 

つぎは同じ著者のこれあたりかしら。