砂漠のナボナ

来る前からここにいて、去った後もここにとどまる

私と星野源 ~星野源9thシングル「恋」発売に寄せて~

ジェーン・スーが好きなやつは絶対星野源が好き、ていうかジェーン・スーが星野源好きなんだもんでもそういうタイプの女性は「変わった人が好き」「個性的な人が好き」とか言いつつおれみたいな他者に恐怖と違和感を与えるようなガチの変人、もしくはただのめんどくさい人のことはウルトラダイナミックフルソウルダイナマイトスルーしてしまうのでちくしょうこのやろうwitnessMe!的な暴言を吐くことも辞さないという今日この頃ですがいかがお過ごしでしょうか。そんな大人になるつもりはなかった。でもまじめに会社勤めはしているので許してほしい。

 

「恋ダンス」フルver.期間限定公開!! +予告動画 10/18(火)『逃げるは恥だが役に立つ』【TBS】

ここは石田ゆり子のかわいさにも触れておきたい。化け物か/星野源がどんどん遠くに行ってしまう。ミュージシャン出身の個性派俳優ぐらいに思ってたのがすごいことになってんな

2016/10/14 09:38

 

youtu.be

なんかブコメでは冷静ぶって皮肉っぽいこと書きましたがこのところの星野源が最高すぎるんですよね。アルバム「YELLOW DANCER」が発売されたころに「ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル」で件のアルバムの楽曲解説を本人がやっていたんですが、そのときに構成作家古川耕だか誰かが言ってた「誰しも経験する『音楽に救われる瞬間』みたいなものを思いっきり感じさせてくれる」的なニュアンスの発言が大変に腑に落ちまして、ええもう最高だったんですよそのアルバムは。で、続けてこれじゃないですか。「時よ」に続いてのアップテンポかつPerfumeの振り付けでおなじみMIKIKO先生が振り付けした(と言及されているのをブコメで見た)曲なんですが、なんというかよいですね。よいですねとしか書けない時点で私の音楽ライターになる夢は閉ざされてしまうのですがよいですね。「恋」のインストには「ダンスミュージックっぽくないダンスミュージック」「誰にでもある恋」的なことが書かれているのですがよいですね。よいですね。ドラマでは契約結婚をした夫婦を描いているようでこの曲でも夫婦について歌っているような感じではあるのですが、かといって多感な中学生がこれを聞いてもなんとなく意味は分かるだろうぐらいの塩梅なんですよ。よいですね。特に「指の混ざり」っていう歌詞、官能的でもありでもどこかとぼけた感じがするじゃないですか。指は「嚙む」もしくは「絡ませる」ものであって「混ざる」ものではないわけですよ。ええ、よいですね。なんかふたりの指が絡まってる様子も浮かぶし、ひとりでなんとなく手すさびに影絵やってる感じにも思えるじゃないですか。で、そこからの「夫婦を超えて行け」ですよ。これはですねえ、ワタクシ史上最高の作詞家として一部の好事家たちに有名である井荻麟a.k.a.富野由悠季の大傑作「愛の輪郭」を超えたという気がするのですよ。というかよいですね。というか。よいですね。というか超えてはいないのですがポップさにおいて圧倒的に上回ったわけですよ。よいですね。結局のところポップさが大事だというのはカート・コバーンも言っているわけでしてところでカートコバーンとセクシャルバイオレット巫女みこナース!って響きが似てませんかポップなのはえらいなあと思うわけでした。よいですね。

で、私と星野源との出会いはクドカン脚本のドラマ「未来講師めぐる」でありまして、生徒たちから「エロビデオ」と呼ばれ蔑まれる塾講師・江口ひでおをそれはもう熱演していたわけです。思えばその劇中曲「ぉ前達ァヵデミナール」をテレ朝のモバイルサイトでダウンロードしたのが初めて星野源の作品にお金を出した時でした。とはいえ当時は勝地涼のラップの勢いの良さにばかり注目しておったので星野源という名前もそんなに覚えておらず、星野源という名前を覚えるのはその後たまたま聞いたオールナイトニッポンクリエイターズナイトという一時期月曜日にやってた週替わりのオールナイトニッポンでごわした。ほかのパーソナリティが大宮エリーとかだったり「星野さんはどうしてそんなマイナーな音楽ばっかり知ってるんですか」なんて質問がリスナーからくるあたり「自分のことを変わってるとか思ってるやつはその時点で大したことねえんだよ、けっ」ととんがってた当時のおいらは思ったのですね。そこを踏まえて冒頭の変人アピールとか読むとよいですね。おれが。

その後立ち読みした雑誌で星野源が映画評かなんか書いてたんですが、それがいわゆる自分の個人的な体験をもとにしないと話を持たせられないタイプの映画評でして、これまたとがってた当時の私は「けっ」と思ってたんですね。いなせだね夏を連れてきた人渚まで噂走るよ「けっ」。その後「箱入り息子の恋」とかに出てるのを見て、ああ童貞キャラで売っていくのね、よいね。と思いつつ彼をよいもの扱いするにはまだ抵抗がありました。だって当時でもまだ彼のことを「エロビデオ」だと認識してましたから、あの役ホントにハマってたよ。それで病気療養とかしていると聞いて「売れてきたのにかわいそうに」と思ってたんだスが、もうその後は気づいたら「SUN」とかなわけです。よいですね。というわけでわたしはもうすっかり星野源に関してよいですねとしかいえないわけです。ここは元バンド仲間で同じく俳優のハマケンの捲土重来が待たれる、とか書いてたら彼もものすごく売れまくってますね。よいですね。

 

 

死ぬ気でがんばっても何もない、という話

こんな夜中に電通の労災の件についての記事を読んだものだから、なんかいろいろ考えこんでしまって眠れない。来月には近くにメンタルクリニックができるから行ってみようかしら、私はそういう感じですがいかがお過ごしでしょうか。おれは記録がないから過労死しても労働時間が記録されないんだなあなどと暗い気持ちになっております。

さて、それとは関係なく前々から考えていたことなんですが、「死ぬ気でがんばる」っていう言葉があるじゃないですか。今の会社に入社した当初同期が自分で言っているのを聞いたことがあるし、別の同期も先輩に怒られついでに「死ぬ気でやれ!」と怒鳴られたことがあるそうで、とにかくネガポジ関わらず一般的で、字面の過激さの割には結構安易に使われがちな言葉かと思われます。一方ではてな界隈なんかでは上記のような事件の記事に「死ぬ気でがんばると結構死ぬ」というフレーズがもはや定型句としてブコメに現れたりします。

で、私という人間は、結構死ぬ気でやればなんとかなっちゃうんじゃないかと思ってる人間なんですね。中学時代に科学部のみんなでドームから自作したプラネタリウムとか、高校生の時になんとなく立候補しちゃった生徒会長とか、提出10日前にパソコンクラッシュしたけどなんとかなった大学の卒論とか、今の仕事は1日にやるべき作業量が決まっているため残業はあっても1日で終わらないということがないので例外としても、今まで意外と何とかなっちゃってるからまして「死ぬ気」を担保にすればなんでもできてしまうのでは、という全能感にも近いものがあるのです。いや、正確にはあったのですよ。

その考え方を変えたのがこれ。

www.targma.jp

この展覧会は全国でやってたらしいので、この記事のものとは若干違うかもしれないし(私が見たのは渋谷での展示)記事は課金してないので全文読めないからわからないけど、要するに死刑囚たちが描いた絵を集めた展覧会です。主催が死刑に反対する団体なので「死刑囚だってこんな素晴らしい絵を描くんですよ!人の心があるんですよ!」みたいな意図が感じられたんだけど、まあそれはおいといて。で、何が言いたいかというと、この展示会の作品を書いた人たちって死刑囚なんだからもうすぐ死ぬことが決まってる人たちなわけですよ。そりゃ本当にいつになるかは知らされていないんだろうけど、近く死ぬことが決まっているなら、それはもう死に物狂いで生きてる人たちなんじゃないかとぼくは思ったのです。きっと描いた絵も、それこそ「死ぬ気で」描かれたものなんだから、きっとすごい作品がたくさん見られるに違いないと思っていたわけです。

でも、そんなものはなかった。確かに上手な作品はあった。リンク先の記事の画像の作品も見たし、上手いとは思った。でも、ぼく程度が「上手い」って表現するぐらいなので、程度としては美術部の高校生が頑張って描いた、県の学生展覧会には展示されるだろうな、ぐらいの作品でしかなかった。有名な画家の作品にはそうとは知らされなくても鬼気迫る何かを感じることができるのに、死刑囚たちの描いた絵には、彼らが死刑囚と知らされなかったら特に気にも留めなかったような作品しかなかったのだ。そういうのはまだいいほうで、まともな絵画ですらない、吹き出しの中で人物が死刑反対のセリフ(縦書きなのに左から右へ書かれていた気がする)を述べるだけの漫画のような作品もあった。何をもって芸術をするかは権威主義が云々だけれど、あれを芸術作品だとはとてもいうことができない、幼稚な代物であったと思う。

そのときぼくは、ああ、死ぬ気でやっても何もできないんだなと悟った。ぼくはそれこそ今からでも死ぬ気になればピカソなんて目じゃない絵が描けるもんね、ぐらいのことを、本心ではなくても心のどこかで思っていた気がするのだ。でも、そこまで到達するには芸術作品とは何かを自分なりに考えたうえで世間一般の考えと照らし合わせて、そこに合わせていくのかそれともあえて違う方向に行くのかを決めて、そこからさらに試行錯誤を重ねて技術を積み重ねないと、あるいはよほどの天才でないと到達できない、もしくはそこまでやっても無理なものなのだということを、あの展覧会で思い知った気がする。自分の心のわずかなスペースで伸ばしていた鼻は完璧にへし折られて、でもそこをよりどころにしていた部分もわずかにあったので、ぼんやりとした無力感を覚えながら家に帰ったことが印象に残っている。

ただ、それと同時にわいてきたのは、死ぬ気でやっても何もできないのだから、やりたいことはとにかく前倒しでやろうという決意だった。老後は絵を描くことを趣味にしたい、そして技術的に高度なことがやりたい、ならば今すぐに絵具と紙を買ってきて始めよう。就職するのは仕方なくであって、本当は小説家として食べていきたい、ならばとにかく紙でもパソコンでもいいから1文字でも書こう。死ぬ気でやればなんとかなる、というのは幻想であって、仮に死ぬ気でがんばったとしても納得のいくクオリティには到達できないしそのことにがっかりしながら本当に死んでしまうかもしれない。だからこそ人生にやりたくないことをやってる暇なんてない。「死ぬ気」なんて軽い言葉を当てにするな。今すぐやれ。そういうことが自分の中に深く刻み込まれた。

翻って今の自分を見るに、本当にやりたいことができているかといえば答えはNoだ。所詮そういうものでもある。今は準備期間だからとかいろいろと言い訳はあるけれど結局やっていない。でも「死ぬ気」を当てにすることはなくなった。やりたいことはすぐに実現するにはどういう手順で何をしていけばいいかを具体的な目標として考えるようにはなった。やりたくないことと並行してやりたいことをどうやって実現させていこうか、時間の限られた中で何をしていくべきか、それを考える癖はついた。それを実行するのは様々な不確定要素によりこれまた滞っていたりするけれども、「死ぬ気」使用ルートを夢想することはなくなった。死ぬ気でやればなんとかなる、というのは優しい嘘であって、そんなものは幻想にすぎないということが自分の中にがっちり埋め込まれたのは間違いない。そう生きていくのが自分の人生だと強く思っている。

 で、最初の話に関連付けるなら、死ぬ気でがんばることはそもそもナンセンスなのだから、伝説のこれとか

hase0831.hatenablog.jp

を思い出しながら書いていたわけです。普段は早くて30分1000字のペースなのが倍ぐらいの速さで書いちゃったので疲れました。寝ますね、おやすみなさい。

 

そうか、過去にすがってもよかったのか

今日は休みを取って東京に行きました。以前スーツを作ってもらった仕立て屋さんに新しいスーツを作ってもらいに行った(ちょっと派手なスーツになりそうでどきどき)のと、今回はこっちがメインなんですが、恩師が主催するイベントに行ってきました。とある著名人の講演会だったのですが、これが大変に刺激的で面白かったです。詳しい話はまたの機会に。その後は懇親会があったのですが、お世話になった先輩や同期も参加していて、ちょっとした同窓会みたいで楽しかったです。いわゆるカタい職場でホワイトに働く人、なにかと問題を抱えた職場でそれでも充実した日々を送っている人、業界の最先端にいながら新たなフィールドを探そうと試行錯誤している人など、いろんな人がいました。

元々、最近今の職場の雰囲気に染まりつつあるけど自分はこれでいいのか、と感じている部分があって、自分の視野を広く保っておきたいと思って参加したんですが、とてもよかったです。自分が職場に感じている違和感が、これは同僚に話すと否定的な返事が返ってくるんですが、傍から見れば実際におかしいものであると指摘されたり、自分がもう当たり前だと思っていたことがやっぱりおかしいものだったり。元々彼らと何でも話せるような関係だったというわけではないのですが、同じ教師の下で学んだという縁からか、それなりに僕のことを気遣ってくれたり、冷静にコメントをくれたりしたことがとてもうれしかった。僕はOB・OGが伝統とか自分たちの美化された思い出をかさに着てずっと昔話に興じるような状況がとても嫌いで、すでに抜けた集団に戻るような行為はあまり気が進まなかったのです。しかし久々に会う人との交流がこんなにも刺激的ならば、上記の考えを改めてもいいのではないかなと思い始めました。決してそれは後ろ向きではないし、新しい流れにつながる期待もありました。あまり入り浸るようになってもいけないけれど、共に学んできた仲間とたまに交流するのは全然アリだな、と思えるようになりました。

ツイキャス始めます 2016年10月2日

今日は前から気になってはいたけれど高くて買えなかった本を買ったり、初めて香水を買ったりしました。結構冒険の日です。新しいことをすると自分の幅が広がった(気がした)り、世界が立体的に見えるようになった(気がした)りして楽しいですね。

ところで、先日なんとなくツイキャスをやってみたのですが、これが意外と楽しかったので気が済むまで続けてみようと思います。このブログに書いていることは自分の頭の中で何度も考えていたこと(映画評除く)ばかりなのですが、考えているときは結構誰かに話している自分をシミュレーションしてるんですね。で、バカ受けしているところを想像してニヤニヤすると。とはいえそれが実現したことはないのでこうしてブログを書いているわけなんですが、構想中に話している自分を想像するのならば、実際に話してしまえばいいんじゃないかと。いや、もちろん話し出すと何を話そうと思ったか忘れたりするんですが、誰に聞かせるわけでなくとも、音声としてアウトプットを残しておきたいみたいな思いもあるのです。例えるなら、英語の学習も書き取りだけじゃなくてリスニング、シャドウイングも併せてやると上達するみたいな感じをイメージしてます。

というわけでしばらく夜11時~12時の間で手が空いたらやります。お暇だったら聞いてください。

MATSUSHIMA K-point (@carbonphilia) 's Live - TwitCasting

2016年9月30日の日記

今日は仕事が休みだったんですが、午後から休日出勤しなくてはならない用事ができまして、しかもそこでいろいろとミスに気付くというアレな日でした。わが職場は大変なブラックなので、そこで働いている自分も反社会的な存在を支持していることになるのではないか、ぼくは社会にとって害悪なのではないか、みたいに考えるとどんどん気分が落ち込んでいってすごいですね。やめましょう。午前中もいろいろとやりたいことはあったのですが、どれもやらないまま寝過ごすという、残念な日でした。ただ、朝に作ったカレーはけっこうおいしかったかな。フォン・ド・ボーの固形のやつを入れると高級感が出ますね。

 

そんなこんなで結構ネガティブな感じになったので、それなりにネガティブなエントリを書こうかと思って悩んだ挙句、とりあえずタイトルは「リア充の圧倒的な正しさ、そしてぼくが彼らを憎む理由」にしようと決めたところまでここに吐き出しておきます。でも1時間後くらいにもう書いてたりして。明日はいいことがあるといいな、と思い続けてもう3年か、という感じですがまあ、そんじゃあね。

おれという人間の価値観を押し付けたいがためだけの本たち

今週のお題「プレゼントしたい本」

過去に何度か本をプレゼントしようとしたことは何度かあって、読んでつまらなかった本とかはタダでホイホイ人にあげちゃう(時には相手に金を払ってまで引き取ってもらう)のですが、プレゼントとなるとなかなかうまくいかない。実際に渡すタイミングがなかったという場合もあるのですが、なんだか「この本読みなよ」って教養の押し付けというか間違った教養主義というか、おもしろいだろうこの本っていう価値観を相手に押し付けたいがためだけにやろうとしてないかって思っちゃうのです。そうなると本をプレゼントするという行為がなんだか暴力的なものに思えてきてしまってなかなか実現に至らずもやもやしております。ほかの人から本をもらったり勧められたりするのはすごくうれしいんだけどね。というわけで傲慢なタイトルからスタート。

 

アマニタ・パンセリナ (集英社文庫)

アマニタ・パンセリナ (集英社文庫)

 

 これは大学で薬学部に進学しようとしていた女の子にプレゼントしようとしていた本で、文系だったぼくには薬のことなんてわかるわけもなく、それでもなんとか共通点を見つけようと頑張った結果がこの本。中島らもが合法非合法様々なドラッグについて語ったエッセイなんだけど、勉強のために入った図書館で中島らもを読み漁っていたこと、当時の自分には薬の知識なんてこの本由来のものしかなかったこと、そしてドラッグとかロックみたいなカウンターカルチャーに憧れていた高校生時代の自分自身について彼女に知ってほしかったことがありありと思い出されて大変甘酸っぱい気分になる一冊。

 

サキ短編集 (新潮文庫)

サキ短編集 (新潮文庫)

 

 当時サキさんという女性と接点ができて、前から知ってはいたけど特に話す間柄ではなかったのが、急に会話をするようになったのがきっかけで、なんとなく洒落でプレゼントしてみようかなと思って買ったのがこの本。結局サキさんとはそれ以上仲良くなることもなく、この本もいまだに読んでないし、上記の出来事をすっかり忘れてもう一度この本を買おうとしたぐらいにはぼんやりした思い出しかない。でもサキさんにサキの本を贈るというのは我ながらうまいこと言ったなあと当時の僕は思っていたのだろう(今でも思っている)。

 

禁酒セラピー [セラピーシリーズ] (LONGSELLER MOOK FOR PLEASURE R)

禁酒セラピー [セラピーシリーズ] (LONGSELLER MOOK FOR PLEASURE R)

 

 これは実際にプレゼントした本。当時ちょうど20歳を迎えて、人生で初めて酒を飲むという女性にこれまた洒落でプレゼントしました。もう受け狙いでしかないけど、その宴会の席では非常に受けたのでよかったっす。

 

初音ミクはなぜ世界を変えたのか?

初音ミクはなぜ世界を変えたのか?

 

 これも実際にプレゼントしました。音楽を研究している大学院生の女性とたびたび初音ミクについて話すことがあって(楽器の歴史から見ても興味深いらしいですよ初音ミク)、その流れの中で思いついたのと、当時彼女が就職先が決まったというのでそのお祝いに。この本は書いている人がロッキングオン出身の人で、ウッドストックとかパンクムーブメントとかと同列に扱って「世界を変えた!すごい!」って言おうとするような書き口が個人的には気に入らなかったけど、全体的な内容は面白かったと思う。全部読む前に持ってたのをあげちゃったのと、彼女から感想を聞いていないのが心残り。

 

 この本も実際にプレゼントした本で、これだけ相手が男性。「最近なんか面白い本ない?」と聞かれてプレゼントしました。最初に読んだときはそうでもなかったんだけど、後から思い出した時にあまりに泣いてしまって、これを持ち続けたら自分はダメになると思ってブックオフで売っちゃったんだけど、それでも買い戻したくなるぐらい好きな本。好きな人の昔の姿を見てみたくないですか?みたいな一文があとがきにあって、そうそう好きな人の性格とか視点はどうやって作られたものなんだろうとか、もしくは相手が過去に悲しい出来事に直面していた時にタイムスリップしては現してあげたいなあとか思うことがよくあったのでとにかく刺さりました。とにかく大好きで何冊でも買ってみんなに配りたいんだけど、だからってプレゼントする本人の目の前で読み直して号泣してから渡すのはやりすぎだったかなあと思います。

 

「ない仕事」の作り方

「ない仕事」の作り方

 

 これはプレゼントできなかった本。相手は女性で、本人は自由奔放で型破りなところがるんだけど、でも仕事でとにかくカタい部署に配属になってしまったという人に渡そうとしてました。でも彼女はとにかく活字を読まない性格らしく断念。仕事はしなくちゃいけないけど、なんかもっと気楽に好きなことやっていいしできるんだよって伝えたかっただけに残念。ほぼ日が関わっているのでそっち系のテイストと合う合わないはあるにせよ、結構いい本なのにねえ。

 

こうして並べてみると、おれ、女性に本をプレゼントしようとしすぎ。なんだかそういうところからも女性を自分の型にはめて口説こうとしているようでいやになるんだよな~と思いつつも、本って選ぶ人の過去やその時の趣味とか考え方がダイレクトに反映されるから好き。これを書いているときも過去の自分を思い出してすごく懐かしい気持ちになりました。だから似通ったセレクトになる「人生で読むべき本20冊」みたいなのは好きじゃないんだけど、もうちょっと趣味がはっきりしていたり、自分の知っている人から勧められる本はどれもすごく面白そうに見える。だからもっと人から本を進められたいなあ、そしておれの勧める本も読んでほしいなあ(そしておれの趣味を理解しておれのことを好きになったりしてくれないかなあ)と思うのだ。

新海誠がおれを刺しに来た 映画評「君の名は。」

あの、最近でも「お前は女性との距離の詰め方がキモい」なんて言われるぐらいにはぼくはキモいらしいのでいかにこの映画が気持ち悪かろうと、某シロクマが「秒速……」をキモいと言おうと、そしてこのエントリがいかにキモかろうと、その点については十分に自覚したうえで書いてるんだよって言い訳したうえで本題に入るのですが、えっと、その、劇中で奥寺先輩と瀧くん(三葉ちゃんver.)がデートしてた国立新美術館、あそこでぼくもデートしようとしたことがありまして、ひとりでも何回か行ったことがあったのにわざわざ下見するぐらいの気合の入れ方をしたのに結局実現せずに終わったんですが、それが実現しているのを大スクリーンで見た瞬間にもう泣いてるよね、っていうか周りカップルだらけだったけど彼氏を待ってる時の彼女たちとかかわいすぎてもう映画が始まる前から泣いてたよねっていうか、閑話休題ともかくですね、ほかにも奥寺先輩とデートの待ち合わせしたり就活の合間に再会したりした四ツ谷駅前とかも、仲良かった先輩との思い出の場所だったり就活で憔悴しきってふらついてた場所だったりするんですよ、これがねえ、そんでもって瀧くんと三葉ちゃんが電話かけてもつながらなかった歩道橋あるじゃないですか、あれをなんだかすごいテンションで走り抜けたこともありましてですね、で、舞台が東京と飛騨じゃないですか、ぶっちゃけ今住んでるのが岐阜だったりするのでだいぶ見たことあるものが見えるんですよ、「あ、あれは美濃太田行きワイドビューひだじゃないか!」とかね、もう新海誠にストーカーされてんじゃねえかってぐらいおれにゆかりの土地が映るわけ、もうね、なんなんだと、アボカドバナナかと、そしてもって極めつけは、ねえ、これを読んでいるあなたに語りかけてるんですけど、あなた、夜の新宿を人を探してさ迷い歩いた経験とかってあります?ありますあります?おれにはあっちゃうんだよなあこれがなあ!そんなこともあったよなあとか考えてるうちに泣いてるよね、もう泣いてるよね、ていうか「秒速5センチメートル」が大好きなんですよおれは、何回も見て小説版も読んで山崎まさよしのCD買って明け方の桜木町に行っちゃうぐらい(でもあそこ、そういうロマンチックな感じでもなく海とその近くを走る幹線道路がとにかくかっこいい硬派な町でした)大好きなんすよ、でね、あれもラスト新宿じゃないですか、もう嫌な予感しかしなかったわけ、次の場所を選べないいつでも探しているよどっかに君の姿をまでおれの脳内まさよしはフガフガ歌ってたわけ、でね、そこからのラスト、なんか三葉ちゃんきれいになっちゃってすれ違ったまま通り過ぎようとするじゃないですか、もうこれはあれだ、瀧くんが貴樹くんみたいにドヤ顔して終わる感じだなあーあって思うじゃないですか、でもラストああきたかって話なんすよ、ほら「バタフライエフェクト」って映画あったじゃないですかあれの未公開のラストシーンが何パターンかあるんですけど、監督のコメンタリーでは「撮ってはみたけどこれはよくない」みたいなやつがあるんですけど、それを「君の名は。」ではなぞっちゃってるんですけど、でもいいの!これはこれでいいの!そもそも別の映画だし、この映画は「ほしのこえ」で「ひとりで作り上げた執念がすごい」みたいなことをクールに言いつつ、でもそのエモさになんか引っかかるものを覚えつつ、「雲の向こう、約束の場所」では吉岡秀隆をもってきたあざとさにケッと思いつつ、「秒速5センチメートル」で爆発して人生の大切なものを持っていかれたみたいなはたから見ると単なるナルシシズムに過ぎないサムシングを何やら大事そうに抱えつつ、「星を追う子供」で「あれ?」ってなりつつ、「言の葉の庭」ではおおうなんかポエジーな妄想強すぎないかでもユキちゃんチョコと金麦っておれもやってみたけど意外と合うよねファァァーってなりつつ、今回の「君の名は。」を迎えた人たちの抱えきれないもやもやが一気に解放されるためにあったというか、貴樹くんがやっと成仏したよやったね彼も草葉の陰で喜んでるよ、そういう爆発を一般受けする面白い映画なんだから君も見なよ的な空気の中で落ち着いて迎えることができたという喜びというか、そしてそこにおれの場合は前述の通りの自分のエピソードが重なりまして、ああこれはもうおれのための映画だ、おれのことを描いた映画なんだってヴィジュアル系バンドを追っかけまわすバンギャみたいな心理(さもなくば大槻ケンヂの描くそういうの)みたいになってるよね、ていうかみんなきっと似たようなこと思ってて、自分がいちばん新海誠のことを理解しているなんて思ってるんじゃないの、神林長平のファンみたいにさあなあんて思ってたりするわけなんですが、自分が一番それに近くて我ながらキモいなあワハハなどと思ったりするのですが、っていうか何の話だったっけああ「君の名は。」なんですけど、もうおれ以外にこの作品の良さを分からなくていいので誰も見なくていいです、以上!