砂漠のナボナ

来る前からここにいて、去った後もここにとどまる

かわいい・かわいい・かわいい

職場の、とある先輩は娘さんが去年の末に生まれたばかり。育児の中でのちょっとしたことを話してくれるのだが、これがとてもかわいいのだ。

先日は娘が初めて寝返りを打ったと話していた。育児の一大イベントと言えば「立つ」「歩く」「話す」だと思っていたが、なるほど「寝返り」というのもあるのである。ちなみにぼくは幼いころ寝返りが打てなかったばっかりに頭の形が歪んでしまい、母から「お前は頭の形が変だ」と言われ続け、コンプレックスを抱くに至ったほどである。だから他人の子供の話とはいえ、なんだかうれしくてはしゃいでしまった。そんな祝うほどのことじゃないよ、と先輩は言ったが、そもそもそんな話を他人のぼくにしているあたり、よほどうれしかったんじゃないかと思う。そして、当の娘も、寝返りを打つことはできたがひとりで元に戻ることはできないらしい。かわいい。

先輩の奥様が子供と一緒に職場に来たこともあった。とてもかわいい。圧倒的な「許される力」のようなものと、とてつもない「これから生きるぞ!ぶっ生き返す!」みたいなエネルギーが、なにはともあれ見る者に「かわいい」という感情を抱かせる。ぼくはあまりのかわいさに「はわわ」などと言いながら挨拶していたのだが、そしたら娘、口からなんか出た。おい、なんだそれは。父母曰く「よく出てる」らしいので、よだれかさもなくば乳児特有のサムシングだと思うのだが、なぜよりによっておれの前で出す。おのれ、貴様には数年後におれを「おいたん」と呼ばせ数十年後には「おじさま」と呼ばせる刑に処す。かわいい。

他にも普段から「あー」とか「うー」とか言ってるとか、ハローキティの人形を見せるとニヤリと笑うとか、いろいろ話を聞くにつけ、かわいい。ぼくはどちらかといえば、子供だからといって必要以上にかわいいとか言うタイプではなかったのだけれど、なかなかどうして、今回はかわいさが止まらない。かわいいは正義だ。身をもってそれを実感している。

ところで前述のぼくの頭の形の話だが、坊主頭にしたときに他の人に見せると、そんなに形が変なわけでもないらしい。とすると、今思うにぼくの母が気にしすぎだったのかなという気がする。そこで気づくのは、娘が寝返りを打つようになったことを喜ぶ父親も、かたや寝返りを打つ前の息子をよく覚えている母親も、同じように成長するわが子のかわいさとか、育児のつらさとか、将来への期待とか、そういったものを共通して抱えていたのかなあということ。なんだかそう思うと、母に一筆手紙でもしたためねばならんかという気分になりますな。いや、もちろん先日の母の日には花を送りましたことよ。

余談だが、先輩の娘を見た同じ職場のパートさんから「結婚しなくていいから子供だけでもはよ作れ!」と言われた。もちろん冗談ではあるが、これを今髪を切ってもらっている美容師さん(いきものがかり似)に話したところ「いや、先に結婚はすべきなんじゃないですかね」と返された。もちろんそうなんだけど、まじめか。現場からは以上です。