砂漠のナボナ

来る前からここにいて、去った後もここにとどまる

時代は風俗よりもコンタクトレンズ屋だ

ちょっと思うところがあって、コンタクトレンズを買いに行った。数ヶ月前にかっこいいめがねを新調したばかりなのだが、値段を見ると安かったのでフラッと行ってみたのだ。しかし安いのは1箱分の話で、両目分を数ヶ月分買うとそれだけ倍になるわけで、気軽に行ったつもりが結構な出費になってしまったが。

そこはコンタクトレンズの販売店と、視力測定と装着法の指導のみを行う眼科が併設されている。コンタクトレンズって眼科で診断書もらわないといけないイメージだったのだが、こういう形態になってることって常識だったのかしら。全く知らなかった。そしてさらに意外だったのが、眼科で働いてる看護師さんが美人ばかりだったことである。

美人を見るとおいら困っちゃうよウフフという有様であったが、みんな薬指に指輪をはめていた。ぎゃふん。よく考えれば、患者を治療する医院や夜勤が必要な総合病院よりもコンタクトのことだけやってるならストレスが少なく、家事や育児との両立がしやすいだろう。若い新婚世帯の看護師さんにとって非常に働きやすい環境と言える。しかし、利用者にとっては美人に会えてうれしいということだけではない。本題は視力検査を終えた後、コンタクトの付け方の指導を受けるときにある。

よそではどうか知らないが、ぼくの行ったところでは看護師さんがまずコンタクトをつけようとしたのだ。むき出しの眼球という臓器(ではなくて感覚器だけど)に、美人が(レンズ越しではあるけど)触れようとしてくるのである。すごい。しかしいきなり他人が目に指を突っ込もうとしてきては目をつぶらずにはいられない。だから自分でつけるように言われるのだが、これまでコンタクトをつけたことのない人間がすぐつけられるわけではない。そうすると目を見開いたまま悪戦苦闘するわけだが、次第に涙があふれてくる。もう号泣レベルである。涙がたくさん付くと滑りやすいですよねと言って看護師さんが涙を拭いてくれる。洟が出てもティッシュをくれる。もうちょっと、がんばって(目を開いて)くださいと励ましてくれる。状況だけ見れば、号泣しているダメなおれと、それを隣で必死に励ます美女がいるのだ。

ここで思い出したのはこの増田である。

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風俗でやらしいことは何もせず、ただ女性の隣で涙を流すことで癒やされるおっさん。ぼくの身に起こった今回の一件は、構造としてはほぼ同じである。ただコンタクトがつけられずにいただけなのに、そしてなぜかたまたま看護師さんが美人だったおかげで、本来ならば起こりえないはずの状況が発生してしまったのである。無事コンタクトがつけられるようになり、支払いを終えて家路につくぼくはなぜか妙にすっきりしていた。世の非モテよ、行くなら眼科の併設されたコンタクト屋だ。東京にいたころはコンタクト屋なんてしつこくポケットティッシュ配ってるだけの邪魔な存在だと思っていたのだが、こんな体験のできるものだとは思っていなかった。ありがとう美人の看護師さん、なんだかとても元気が出ました。

ちなみにコンタクトがつけられるようになった以上、定期的な視力検査はするものの今回のようなシチュエーションは2度と無いのである。そこの一回性、刹那的なところも大変趣があってよろしい。本エントリには看護師の方を性風俗従事者に例えるような表現がありますが、不快に思われた方がいらっしゃいましたら大変申し訳ございません。

永遠も半ばを過ぎて

というのは中島らもの本のタイトルだったはずだが、読んだことはない。あのクソ酔っ払い、なんか詩的でかっこいいパンチラインよく思いつくよな。

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写真は東海地方にだけ出回ってる生せんべい。仕事をサボって車の中で食べる。生八ツ橋みたいにこれを焼くのかと思ったら別に焼いたものがあるわけではない。この前デイリーでむかない安藤が取り上げていた。

https://dailyportalz.jp/kiji/sticky_sweets_in_aichi

名古屋のういろうよりはサクっとした歯切れだが、ただひたすらべとべとした何かである。原料には米とか蜂蜜とか書いてあるが、もはやそんなことはどうでもよく、ただひたすらにべとべとである。味はただ甘い。白い部分と黒い部分で味が違うのかと思ったらそんなことはない。ただただ甘い。食べている最中はもはや永遠に続くのではないかという気さえする。誰にも永遠を誓わせてもらえない独身はこれを持って代えるのはいかがでしたでしょうか

 

 

ネタ帳のコピペ

スマホを持つようになったのは去年の後半である。それまではずっとガラケーだけで、今では2台持ちである。バブリー。スマホの何がいいって、写真やメモがデータで取れるところだ。というわけでここ一週間のメモを大公開しよう。ブログに書こうと思ってつけたネタ帳だが、意味はよくわからない

 

 

パチンコキャッスルのコピー遊びに自由を、喜びに革命を

若い女性の貧困

同盟、Union、アライアンス、ユナイテッド

丸襟と妊婦

財布がポケットに入ってない気がする

県病院の内科の先生が大森先生に似てる

音響カプラとトンビでインターネット

音響カプラとヤカンでインターネット

ありのまま

プライオリティ

股間デカルト

映画の映画

米軍装備のかっこよさ

玉越のコピー5日は玉越がいつかは玉越に聞こえる

文体練習

ブログの更新頻度を増やそうと思って色々書いてみたものの、いまいち愉快な文章が書けない。インプット不足とか要因が考えられるが、こういうときは量で質を補う主義である。ということで1日なんぼんでも記事を書いてみよう。スマホはてなブログのアプリも入れたことだし、これで仕事をサボってブログを書きまくろうと思う。

 

思えばブログを初めて知ったのはライブドアのCMだったろうか。ホリエモンなるあやしげな男がいて、なんかやってるって印象だった。そのうちウェブログから転じて日記を指すものと知ったが、テキストサイト世代としては日記なんてHTMLでいいじゃんと思ったものだが、眞鍋かおり中川翔子の影響で瞬く間に広がっていった。しょこたん、おれは今でも愛しているよ、ずっと君が一番だよ。そんなブームも落ち着き、しょこたんツイッターな今、すっかりブログは数あるウェブサービスの一つという感じ。今さらではあるけど、まあそんな感じがいいよな。

 

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昼休みに車の中で食べてる鬼まんじゅう。東海にきて唯一よかったのはこれかな。

愉快な文章が書けない

本当はもっと楽しい文章を書きたいのだ。しかしながらそれができない。スランプである。そういえば学生時代、論文に「けれどもしかし」という表現を好んで使う大学院生の先輩がいた。それってなんか変じゃないですかと聞いたら、そんなことないだろうと帰ってきた。逆説の接続詞を重ねるのはどうにもぼくは気に入らなかったのだが、実際のところどうなんだろ、正解はあるのだろうか。それに彼女はドイツ帰りである。きっとゲルマン風なんじゃないかな、これが。

007でさえ2度しか死んでいないのだから

ましてや我々一般ピーポーがそれ以上は死ねなかろうと思うのです。

kutabirehateko.hateblo.jp

なんだか失恋したときものすごく悲しくなるのってどうしてなんだろう、大半が片思いだし、そこまでたくさん思い出があるわけでもないのに、なんてよく考えていたのですが、上の記事を読んでようやく腑に落ちました。恋があって、愛があって、「人生すごろく」がある。その3つのうち、複数が同時に絶たれてしまう場合がある。そのときの悲しみって、そりゃあつらいよね、という話だ。平野啓一郎のいう「分人」みたいな話でもある。個人はいろいろな場面ごとに「分人」という人格をもっていて、別れがつらいのは相手はもちろん相手のことが好きな自分という分人が失われるからつらいのだ、みたいな。恋する自分、愛する自分、人生のイベントをこなす自分、全員死んだらそれで3回。live and let die、それは007でも違う作品だけれども、それが3回。

仕事中でもひとりになると泣いてしまう僕はおかしいんじゃないか、高校生でもあるまいし、と思っていたんだが、むしろ逆だと思う。何が何だかわからなかった中高生のころ、恋愛も人生も切実な問題ではなかった。あのときは女性に高望みをすることも具体的な将来を期待することもなかった。翻って今の自分を思うと、結婚とか育児とか夫婦生活とか、すごく夢を見ているんだろうな、と思う。

だって、したいじゃん、結婚。おれがいい大学を出たのは人を愛するためだ。おれの愛は相手に語ることによって達成される。いかに相手がすばらしく、いかにみんなに幸せにしたか、いかにおれにとって大切な存在であったか、のどが焼け付くまで語り続けることがおれにはできる。そのための語彙力を学ぶために学問を修めた。それ以上の価値は全くない。いかに相手にオーダーメイドの言葉を残せるか。もしも相手が事故に遭い、病気になり、最後の時を迎えようというとき、聴力が途切れようというまさにそのとき、最高のコトバを発せるようになりたい、そしてそれが許されるのは近親者だ、たぶん一番は配偶者だ。日々たくさんの人間とすれ違い、二度と会わずにお互い死んでいく間柄にあって、最後の言葉を任せられる人、それがおれだ。そうに違いない。少なくともどこぞの坊さんや牧師には任せておけるか。おれが言うんだよ。

育児、したいじゃん。夫婦生活、したいじゃん。いっしょに飯を食って、食器をどっちが洗うかでもめて、子供の習い事費用をどう捻出しようか悩んで、どの保険に入るか悩んで、悩みたいんだよおれは。そんなやりたいこと、夢にまで見た夢、それが目の前の相手とはかなえられない、すくなくとも今は、そう知ったとき、夢が破れたとき、人生が途絶えてしまった気が知るんだ。だから悲しいんだ。

夢とか過去とか、時間がたつといくらでも美化されていく。悲しい気持ちもきっといつかは美化されるんだろうか。さようならさようなら、こんなに良い天気の日にお別れするなんて本当につらい!せめてどうかあなたにもパラソルを振ってくれないだろうか。そうして銀河系の端と端でまた出会えたなら、思い切り手を振りましょうか。ありがとうございました。また会いましょう。 

中原中也詩集 (新潮文庫)

中原中也詩集 (新潮文庫)

 

上の記事は以下の増田のブコメから出会いました。ぼくは教会では必ず教会に集えなかった人々のために祈る。祈ってどうにかなるものでもないけど 、いつか会えたなら笑って話ができるといいね。ラーメンを食べよう。

anond.hatelabo.jp