砂漠のナボナ

来る前からここにいて、去った後もここにとどまる

愉快な文章が書けない

本当はもっと楽しい文章を書きたいのだ。しかしながらそれができない。スランプである。そういえば学生時代、論文に「けれどもしかし」という表現を好んで使う大学院生の先輩がいた。それってなんか変じゃないですかと聞いたら、そんなことないだろうと帰ってきた。逆説の接続詞を重ねるのはどうにもぼくは気に入らなかったのだが、実際のところどうなんだろ、正解はあるのだろうか。それに彼女はドイツ帰りである。きっとゲルマン風なんじゃないかな、これが。

007でさえ2度しか死んでいないのだから

ましてや我々一般ピーポーがそれ以上は死ねなかろうと思うのです。

kutabirehateko.hateblo.jp

なんだか失恋したときものすごく悲しくなるのってどうしてなんだろう、大半が片思いだし、そこまでたくさん思い出があるわけでもないのに、なんてよく考えていたのですが、上の記事を読んでようやく腑に落ちました。恋があって、愛があって、「人生すごろく」がある。その3つのうち、複数が同時に絶たれてしまう場合がある。そのときの悲しみって、そりゃあつらいよね、という話だ。平野啓一郎のいう「分人」みたいな話でもある。個人はいろいろな場面ごとに「分人」という人格をもっていて、別れがつらいのは相手はもちろん相手のことが好きな自分という分人が失われるからつらいのだ、みたいな。恋する自分、愛する自分、人生のイベントをこなす自分、全員死んだらそれで3回。live and let die、それは007でも違う作品だけれども、それが3回。

仕事中でもひとりになると泣いてしまう僕はおかしいんじゃないか、高校生でもあるまいし、と思っていたんだが、むしろ逆だと思う。何が何だかわからなかった中高生のころ、恋愛も人生も切実な問題ではなかった。あのときは女性に高望みをすることも具体的な将来を期待することもなかった。翻って今の自分を思うと、結婚とか育児とか夫婦生活とか、すごく夢を見ているんだろうな、と思う。

だって、したいじゃん、結婚。おれがいい大学を出たのは人を愛するためだ。おれの愛は相手に語ることによって達成される。いかに相手がすばらしく、いかにみんなに幸せにしたか、いかにおれにとって大切な存在であったか、のどが焼け付くまで語り続けることがおれにはできる。そのための語彙力を学ぶために学問を修めた。それ以上の価値は全くない。いかに相手にオーダーメイドの言葉を残せるか。もしも相手が事故に遭い、病気になり、最後の時を迎えようというとき、聴力が途切れようというまさにそのとき、最高のコトバを発せるようになりたい、そしてそれが許されるのは近親者だ、たぶん一番は配偶者だ。日々たくさんの人間とすれ違い、二度と会わずにお互い死んでいく間柄にあって、最後の言葉を任せられる人、それがおれだ。そうに違いない。少なくともどこぞの坊さんや牧師には任せておけるか。おれが言うんだよ。

育児、したいじゃん。夫婦生活、したいじゃん。いっしょに飯を食って、食器をどっちが洗うかでもめて、子供の習い事費用をどう捻出しようか悩んで、どの保険に入るか悩んで、悩みたいんだよおれは。そんなやりたいこと、夢にまで見た夢、それが目の前の相手とはかなえられない、すくなくとも今は、そう知ったとき、夢が破れたとき、人生が途絶えてしまった気が知るんだ。だから悲しいんだ。

夢とか過去とか、時間がたつといくらでも美化されていく。悲しい気持ちもきっといつかは美化されるんだろうか。さようならさようなら、こんなに良い天気の日にお別れするなんて本当につらい!せめてどうかあなたにもパラソルを振ってくれないだろうか。そうして銀河系の端と端でまた出会えたなら、思い切り手を振りましょうか。ありがとうございました。また会いましょう。 

中原中也詩集 (新潮文庫)

中原中也詩集 (新潮文庫)

 

上の記事は以下の増田のブコメから出会いました。ぼくは教会では必ず教会に集えなかった人々のために祈る。祈ってどうにかなるものでもないけど 、いつか会えたなら笑って話ができるといいね。ラーメンを食べよう。

anond.hatelabo.jp

夏なのでバーに行く

k-point.hatenablog.com

夏だから、と思って書いた上の記事がもう3年前だ。そうか、3年も前か。わがブログ史上最大のヒット作にして、今も自分の境遇が変わってないとは思わなかったよ。今でもあのころのことが夢に出るし、そしてまたしてもあのころのように失恋をしている。おいマジか、同い年の君よ。安易に男に媚びたりしない君はそれはもう美しかったが、今回ばかりは世間からの女性への圧力が仕事をしてくれてもよかったんじゃないか、そんな負け惜しみを言わずにはいられない。 そして君の年齢で実家とべったりなのはさすがにどうかと思うよ。もちろんこれも負け惜しみである。

女に生まれてモヤってる!

女に生まれてモヤってる!

 

クソ女め。もちろんこの本も読んだうえでそう言っている。どういう意味かと言えば、そんなことこれっぱかしも本心ではないということだ。願わくばあなたが女性に生まれたことを心の底から謳歌し、女性に生まれたことによる苦しみを感じることがありませんように。しかし、それとは別に喪失の苦しみは大小を問わず精神を八つ裂きにする。喪失の苦しみは例えそれが10年越しだろうと2秒越しだろうと比較できるものではない。喪失の苦しみはありもしない感情をでっちあげてでも自分を遠くに飛ばさないと癒えることはないのだ。

さて、そんなに悲しいときはバーに行こう。

うるせえな、近くにスナックがなかったんだよ。バーは2件もあったんだよ。キューバリブレが飲みたかったんだよ。

おっとここで新海誠もびっくりセカイ系超ド童貞暗号技術キューバリブレ小説がこちら

未必のマクベス (ハヤカワ文庫JA)

未必のマクベス (ハヤカワ文庫JA)

 

 作者はこれまた僕と同じ大学の出身で、そうとは書いていなかったのにそうとわかってしまうぐらいには僕に刺さってしまう小説だったのである。何度もバーが出てきて、そのたび主人公はキューバリブレを飲む。そして主人公は出てくる美女全員にモテる。死ね。

僕も決して若者とは言えない年になった。3年前からそうだと思っていたが、3年たつともっとそれなりである。でも業界内では若い、社内でも若い、部下も後輩も入ってこないからなおさらひよっこ扱い、3年たっても相応の加齢、ここでは”社会的な加齢”とでもいうようなものを実感できないというのは非常につらい。そんな僕にこそバーという環境は最高にマッチした。老け顔、社会的な立ち位置、社会人としての段階を踏めないもどかしさ。こちとら金ならあるんだ!独身だからね!

はっはっは、アニメだからね!とは (ハッハッハアニメダカラネとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

前置きが長くなった。バーの話である。1軒目は家から徒歩5分、チャージなし、メニュー表完備の明朗会計、フードも充実、飲み物は安くもないが高くもないという、普段使いに最適すぎる店だ。マスターはカクテルショーもできるらしく、話を聞く限り地元で音楽活動もやっているようだった。店内のイキフンにそれなりのチャラさはあるものの、マスターの接客は丁寧。客層は騒ぐほどではないものの静かにしていたくもない感じ。トイレもきれい。ジントニック、つまみにピクルス、アイリッシュコーヒー、キューバリブレを飲んで出た。2600円。ああいいね、ちょうどいい。せんべろというわけにはいかないが、いい感じだ。ピクルスも値段のわりに量が多かった。

2件目は徒歩10分の雑居ビルにあった。他の部屋には割烹やラウンジ(ってなんですか)もある、この町こんなに飲み屋あったんだ、ってぐらいの店である。雰囲気はいかにもバーという感じ、髪を撫でつけベストで決めたメガネのマスターが穏やかな声で話しかける、ザ・バーともいうべき店であった。フランス語ならル・バール、スペイン語ならエル・バルダイソーならザ・バーである。メニュー表は無し、カクテル知らないのでちょっとびびる。室内は暗め、席ごとにろうそく、トイレもきれい。ジントニック、つまみにピーナッツ、ジントニック、生ビール。フードもこだわり派なのか、乾きもののナッツを期待してたのにバタピーをさらにバターで炒めてコショウを振ったものが出てきた。予想外ではあったが油脂と油脂との組み合わせは否応なしにうまい。あとバナナをベーコンで巻いて焼いたものも出てきた。ベーコンが好みの味ではなかったがまあまあのうまさ。しめて3800円。なるほどねー。

正直に告白すると出会いを求めている。喪失の悲しみを埋めるのは新たな出会いだ。ここまでの人生では喪失と家庭内不和とか、家族の急病とか、自分自身の急病が重なった。それに比べればすぐに回避行動をとれている今は、まだいくらかマシなんだろう。しかしながら、期待した出会いはそんなにないだろう。これは店がどうとかではなく、土地柄である。それでもそこには酒を飲むおれがいる。酒を供する店員がいる。常連客の要領を得ない話は、いつかわかるようになるのだろうか。今はどうでもいい。おれには居場所ができた。チェーン店より高いが、婚活パーティーよりは安い。まあ悪くない、いい感じだ。だいたいそんな感じ。

今夜、すベてのバーで (講談社文庫)

今夜、すベてのバーで (講談社文庫)

 

hase0831.hatenablog.jp

高校生の時から好きな小説と、今回大いに参考にした記事、ありがとう。

だがナスはうまい

諸君、この喜びと共に今年の夏を迎えられることはこの上ない喜びである。ナスがうまい。とにかくうまい。とにかくうまいのである。

例えば、豚バラ肉と炒めるとしよう。フライパンの脂を一瞬で吸い尽くす様には正直ドン引きであるが、油を吸ったナスほどうまいものはない。さらにピーマン、これは多少マニアックだが、こどもピーマンと呼ばれる細長くて身が分厚く、味の濃いピーマンがある。これと一緒に炒めるのもうまい。油を吸ったナス、青臭いピーマン、ただでさえうまい肉。夏だ、米を食おう、ビールを飲もう。我々は自由なのである。

こう書いてはいるが、ぼくには腸の持病があるので脂の多いものは食べられない。食べるともれなく下痢するからだ。「もれなく下痢する」って、なんかこう、ねえ、ウフフ。だがナスはうまい。その事実に変わりは無い。先日ナスをレンチンして食べたのだが、ただこれでさえうまい。調理に油を使ってないから腹を壊すことはない。でも、ナスってそういえば何味なんだろうか。

そう思って調べてみると味についてのはっきりした言及は特になかった。生だと灰汁があるとか、酸味や苦みがあるとか、これだけの情報ではとてもおいしいとは思えない。だがナスはうまい。そして味についての明確な描写はないのに油との相性については必ず言及されている。みんな何だと思ってるんだろう。だがナスはうまい。

先日初めて婚活パーティーに参加した。なんか色々思うことはあったのだが、人と人が出会って仲良くなることは難しい。それを商売にすることも難しい。みんなよく生きていられるな、と思った。あと、女性の参加費がものすごく安いパーティーだったのだが、女性のやる気が無くて、みんな暇つぶしに来ているようだった。なんだかこう、女性の貧困みたいなことを考えてしまって、でもそれを口にすると風俗嬢に説教する男みたいでなんだか嫌で、でもなんなんだろう。だがナスはうまい。おいしいものを食べて生きていたい。当然エビフライもおいしいが、ナスのうまさも最高である。今ここでエビフライを持ち出したことに全く意味は無い。

さっきはナスとピーマンを合わせるレシピを紹介したが、他にもおいしいナス料理がある。しらすをごま油で炒め、ナスと万願寺唐辛子をあわせて軽く炒めたらめんつゆなんかで煮るのだ。ごま油は使っているが量は調節すればいいのだ。ピーマンも万願寺唐辛子もいっしょではないか、いや違うのである。なんか今日食べた奴めっちゃ辛かったし。それはそうとこの煮物、名前はなんというのだろう。知らないがうまい。熱くてもうまいし、この季節冷まして食べてもうまい。

この料理をおれに教えてくれた男は、かつて僕が親友だと思っていた男は、この僕から最愛の女性を奪った男でもある。なんかうっかり人にこのことを話したらマンガみたいな話と言われた。そうかな、ありふれてるんじゃないのと思わないではなかったが、たしかにまあ、おれもドラマみたいだなと思ったよ。自分が彼の立場だったらどうしていたかと聞かれたが、死ぬほど悩んだ末に身を引いてただろうなと答えた。嘘偽り無く答えたつもりではあったが、そいつを今でも殺してやりたいと思っていることとは大いに矛盾しているのに気がついた。しかしこの人初対面なのに踏み込んだこと聞いてくるなと思ったが、彼女もまた婚活イベントで出会った人なのである。まあいいかと思いながら、お互い最初から下心があって出会った相手というのは面白い関係性だと思った。どう転がっていこうか。

だがやはりナスはうまい。この季節、スーパーの漬け物売り場にはちょっといいナスの漬け物が並ぶのだ。あれだけ油との相性がいいと言われたナスのくせに、まったく油を使わない漬け物にしてもうまい。なんでだろうな、はっきりした味もないのに。

久々に「秒速5センチメートル」を見た。久々に泣きたかったので。かつては貴樹君に感情移入して泣けてしまったのだが、大人になってから貴樹にふられる女性が悲しくって泣けて仕方なかった(漫画版では描写がめっちゃ増えてマジで泣ける)。それでも結局ラストの山崎まさよしが流れ始めると涙が止まらなくなってしまったのだが、一瞬号泣しても泣き続けることができないのだ。役者に向いているのかも知れない。

だがナスはうまい。この、なすそうめんという料理がものすごくうまい。この記事へのリンクを張れることが、この記事唯一の有益な部分である。

www.hotpepper.jp

はたして有益であるとはどういうことなのだろうか。あなたは、有益ですか?

 

 

難病になってよかったこと

「難病もの」映画の感情移入がはかどってめちゃめちゃ泣けるのだ。

 

k-point.hatenablog.com

 

僕は潰瘍性大腸炎を患っている、原因はわからないけれどなぜか腸に炎症ができて下痢や血便が増える。症状がつらいときはそれはもうつらいが、直接死に結びつくことはないし、実はこれ難病(厚労省が指定する特定疾患、単純に治療法のない重い病気というわけではない)の中では一番患者が多いので、完治はしなくてもやりすごすノウハウの蓄積がかなりあるのだ。だからうっかり消化に悪い物を食べ過ぎたりしない限り何も症状は出ないし、他の人とそこまで変わった生活になるわけでもない。

それはそうなのだが、「難病」と呼ばれるものを背負うのはそれなりに覚悟を強いられる事態ではある。今まで思い描いていた将来がちょっと茨の道になったような感覚があった。一番ひどかったときはお腹が痛すぎて鬱になりかけたし、やむを得ず人のいるところで漏らしてしまったこともある。それなりに症状が安定した後も、ステロイド剤の副作用で体中に赤いニキビができたり、体重が乱高下したり、ホルモン量の変化でまたしても鬱になりかけたり、毛の抜ける薬を飲むはめになったり(抜けなかったけど)、こうしてみるとなかなかにハードな人生である。

さて、難病ものと呼ばれるジャンルがある。いざ自分がなってみると、これほど泣けるジャンルはない。近年では「君の膵臓を食べたい」(実写、アニメ共に主役の演技と音楽が最高ってちょっとすごいメディアミックスですよね)とか、「8年越しの花嫁」とか、変化球だけど「世界一キライなあなたに」とか、ちょっと前だけど「私の中のあなた」(アレック・ボールドウィンが脇役ながら良いのです)とか。並べてみると、難病ものとは難病に苦しむ当事者とその周囲の物語で、特に後者が主人公であることが多い。前者は僕も同じ当事者であるという立場からものすごく感情移入できるのだが、後者にもまた、すっごく感情移入してしまうのである。

僕は潰瘍性大腸炎の診断を受けた当初、正直あまり自分事としてとらえることができなかった。だってなんか急に腹が痛いんだもん、そして原因がわからないんだもん。診断を受けたときも、自分の状態にやっと名前が付いた安堵感はあったものの、それ以外は「へーすごいですね」という風であった。象徴的なエピソードとして、当時僕が周囲に開催を持ちかけた「難病ナイト」というイベントがある。僕の難病罹患を祝して盛大に飲み会をし、最後に僕が架空のアイドル”ゲリピー”に扮して「碧いうさぎ」を歌って締めるというイベントを提案したのだが、話した人にドン引きされて終わっただけである。病気になったことをせめて笑い話にしようという意図があったわけだが、それにしたってまじめにとらえていなかったのであろう。もしくは、どうとらえていいかわからなかったのだと思う。

映画の登場人物、病気の当事者を取り巻く人々も、ある者は重くとらえて狼狽し、ある者は辛抱強く向き合い、また無関心な者さえいたりする。それはもちろん、当事者との関係性や当人の価値観によって変わってくるだろう。しかしそれは当事者にとっても同じなのである。自分自身でだって、自分自身のことはよくわからないのだ。まず病気をどう治療するかの選択、そしてどう向き合うかの選択をする必要がある。あっけらかんとしているか、悲劇のヒロインぶるか、あまり気負わず周囲に依存して生きるか(っていうのが熊谷晋一郎の当事者研究ではよく言及されるけれども)、その時々で何通りもの選択肢がある。当事者であっても望んで発症したわけではないのだから、ある意味巻き込まれた第三者的な一面があるのだ。

さすがに難病ものは当事者がいるだけにどれも慎重に作られている。どれも事実や綿密な取材を元に作られているのだろう。もしかしたら自分の現状を特別なものと思いたくて、創作の中に自分を重ねているのかもしれないけれど、とにかく僕は難病ものが好きである。登場人物の言動が、一挙手一投足が涙を誘う。ああ、がんばって生きてるな、おれもがんばってるんだよな、なにせおれ、がんばってるからな。そこでようやく病気の自分を許せる気がするのだ。難病というのは理由無く発症するもので、患者自身には何も落ち度がないのだけれど、それでも自分の中には失敗感、挫折感、悔しさがある。それがようやく救われる場所が僕にとっては難病もの映画なのである。

さて、なんでこんなに感傷的になったかというと、「8年越しの花嫁」を見ていたのだが土屋太鳳演じるヒロインは調理師なのだ。そんでもって直近の僕の失恋相手が調理師なのだ。ちなみにその前は栄養士である。腸疾患を抱える者としては食に強いパートナーが是非ほしいところなのだが、何かとうまくいかないものである。こうなったら食は自分で極めることにして、パートナーについてはなんとしても美人で巨乳でどスケベな嫁を手に入れる所存である。

 

8年越しの花嫁 奇跡の実話
 

 

残業と結婚

このところ2か月ほどずっと残業続きだった。過労死ラインには届かないが、実家から遠く離れ友人も恋人もいない独身では生活の基盤があっさり崩れる。たまっていく洗濯物、使っていないのに減っていくお金(自炊せずに適当に買っては食べずに捨てたりするから)、悪化する持病、労働とは悪であると言っても過言ではない。

残業といってもトラブル対応だったので、一緒に働く仲間がいたのだ。直属の上司、他部署の上司、他部署の先輩と僕を含めた男4人である。事業部長は逃げた。最遅で日付をまたいで午前1時まで働いていたのだが、ふと気づいたのである。あれ、おれ以外みんな結婚してるぞ、と。

僕は家に帰ってから食事を用意して、選択してないから深夜だけど洗濯機回さなきゃならなくて、でも明日も朝早いからシャワー浴びなきゃいけなくて、とあたふたしている中、ほかのみんなは余裕である。みんな家に帰れば家族がいる。今日日家事は女性だけがやるものではなくなったとはいえ、結婚していれば多少なりとも分担できるものだろう。家に帰ったら翌日分の下着ぐらいは洗濯してあるんだろう。食事ももしかしたら残してあるのかもしれない。なんなら、起きていて帰りを待っているかもしれない。かたやおれはひとり。独身者手当とかないのか。

思ったのだ。結婚したいと。結婚すれば残業し放題ではないか。年収上げ放題である。

もちろんそんなことのためにパートナーが欲しいわけではない。結婚できたならむしろうれしくて早く帰ってくるだろう。それができなくてさみしいのだろうか。